果たして日本の戦争目的は達成されたの | return-of-cd125tのブログ

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天皇をただの象徴に封じ込められ、憲法とはいえば、日本を手足のない達磨にするべく、鎖付きの精神的奴隷国家を作るに大いに役立ってきた。

これらを良しとする日本国民は敗戦の原因は旧憲法にあり、あの憲法下で日本はアジアに侵略を企てたという思い込みがあるのだろう。

 

象徴にされた天皇は魔法使いに石にされ,、口をきくことも許されない。なんでこんな国が目的を達した戦勝国であろうはずがあろう。

 

あの大戦争である人種戦争を、いかに原爆が皆殺し兵器だとはいえ、東京大空襲米で米国の残虐は証明済であったではないか。今さら、原爆に恐れおののきポツダム宣言を受け入れたことは、後々に禍根を残すのもとになった。玉砕覚悟の日本人に怖いものなどなかったはずだ。

 

東亜制覇の白人の野望を絶つ聖戦であり解放戦であることは日本人の誰もが知っていた。ポツダム宣言を受け入れ、はしごを外された国民の空虚を考えてみればいい。東亜解放の夢を抱いて死んでいった者たちの志は一体何だったのだ。そんなことは、まるでなかったように、戦後の日本人は性の快楽と家族制度の崩壊に邁進させられて来ただけなのだ。戦後の日本は、言わばアメリカの3S政策の延長線上を未だ、はみ出すことなく、自分でものを考えることのできない家畜的存在にされてしまったままなのだ。

 

いや、そんなことはない、日本が大東亜戦争を断行したおかげで、アジア諸国は日本に経済的繁栄をもたらしてくれ,アメリカ軍を日本の番犬にしてしまったすごい日本というのも成り立つのだろうが、、私はそこまで楽天的にはなれない。

 あの時、昭和天皇が原爆の非道さのために終戦を決断され、アメリカ兵も日本人も救われた。やはり、日本の天皇はすごいと手放しで絶賛することなどできはしない。今の天皇や皇室に心からの畏敬の念や畏怖の感情を持てる日本人など誰もいない。ただ、週刊誌的ゴシップとしてネタにされる一ランク上の芸能人としての存在でしかない。

戦前の日本が何故、アメリカ大陸へ移民に行ったり、満州に出てゆかざるを得なかったのかといえば、江戸末期、明治初期にはわずか、3000万人から3倍にも増加した人口を養うことが国内においては不可能であったからだ。あのような、急激な人口増加を放置しておいた日本政府というのも少し知恵が足りなかったともいえる。

2.26事件の発端は東北など地方農村の貧困に苦しむ農民に対し同情心を抱いた将校たちの天皇への直訴だった。これに対し天皇は、それら将校たちを国賊として、微塵もその心根に理解を示すこともなく怒りに任せ、無慈悲にその後将校たちを処刑してしまう。

   そこには、神、天皇の姿はどこにもなかった。

その様な青年将校の決起が純粋なものでなく、共産主義者による日本社会転覆を狙って起こされたテロとしてかたずけてしまった天皇というものは余りにも慈悲に欠けていたと思うのは普通の考え方だろう。

大東亜戦争へと赴くまでの、ワンクッションの機会として2.26事件は日本に考える時間とチャンスを与えていたのだとも思える。日本はもう少し思慮深くあっても良かったのかも知れない。

 日本が維新を断行できたのは日本人の優れた潜在力であったかも知れないが、やはりアメリカやヨーロッツパ諸国の手助けがなけれ敢行できなかったのは事実だ。彼ら白人たちが徹頭徹尾有色人種差別主義なら最初から日本人など相手にしていなかっただろう。無視さへ出来たのだ。

だからと言って、白人たちの植民地主義を肯定するわけではないのだが、彼らが優秀な民族であったことに間違いない。弱肉強食のこの世にあっては当然の摂理だ。その白人列強の中に、唯一、有色人種である日本人が食い込み、名誉白人のような地位を占めていたというのも事実だ。維新断行後の日本人自身もそう考えていた。

恐らく、大東亜戦争に至る直前までは名誉白人(西洋かぶれの)としての日本人という間違った昂ぶりがあったのだろう。そこには、江戸末期のような西洋に侵食されるというような恐れではなくプライドだけの日本が先行していたのだろう。軍部だけでなく、日本人全体の慢心のようなものもあったはずだ。これは戦前、戦後、一貫して日本人の中に流れ共有する意識だ。要するに井の中の蛙大海を知らず、日本の中の世界に変質した意識の中でしかものを考えられない民族なのだ。それを、超越していたのは江戸末期の志士達だけだったのだろう。

やはり、日本人は明治以降、西洋文明に毒され過ぎ、日本人を置き去りにしてきた。その付けが大東亜戦争というものを導いたとも言えなくもないだろう。アジア解放という旗印のもとに大東亜戦争は行われたが、真の日本でないものが神国日本を掲げ、荒っぽいことをやらかしたのだ。でなければ、日本人は負けたとしても誇りを持って生きてゆけるはずだった。

若干40歳の天皇が大東亜戦争をアジア解放戦争と位置付けることをいつのころから考えておられたのかは定かでなく、軍部の意向に押し切られ戦争直前に帝国声明に裁可を与えざるを得なかった心の揺れる中での決定だった。

つまり、天皇の意志などは統制派の軍部にはどうでもよく、”シナ事変をアジア解放の契機とする”(八巻康成氏資料より)と勝手に)彼らの独断専行というのが本当のところだろう。天皇に統帥権などなかったのだ。

天皇が皇道派を向こうにやり統制派を重用したのが、恐らく日本の分かれ道になったのだ。