国というものは、どうなんだろう。 ドイツは第一次大戦における天文学的賠償を戦勝国に押し付けられ、ヒットラーという怪物を生んだ。ドイツ人のような生真面目で優秀な民族にとって、ヒットラーはこの耐えられない民族的屈辱である重圧を跳ね返し、国民のプライドを取り戻すのに、格好の国民の意思の具現化であり、象徴であったに違いない。当時、ドイツ国内でも、他のヨーロッパでも金融支配(?)し、ある、一定の力を持つていた、或いは金だけが頼りの流浪のユダヤ民族にその怒りの矛先を向け、国民の意識を高揚させたのはうまいやり方だったと思うが、それをヒットラーのナチズムにだけに戦争責任を押し付けるのは間違いだろう。国民の総意思と捉えるべきだ。 これを日本と対比すれば、どういう事になるだろう。 日本はアメリカ移住を明治のころから始めていたが、有能な日本人に脅威を感じ、危機感を増した下層アメリカ階級の白人を母体とする民主党などから日本排斥運動で日本はその余剰国民の行き場を他に見出さざるを得なくなっていた。 日清、日露戦争で国際的に認められたシナ大陸に足掛かりを得ていた日本は満州国に希望を託して、多くの日本人が満洲に移住し、日本のインフラ投資で成功していたのだ。しかも、アメリカのように人種差別のない五族協和協和の世界だ。 これに、目を付け、満洲利権に色気を出したのが、資源も農地も充分有するアメリカだった。欲どおしいにも程がある。日本人をアメリカから排斥し、尚且つ、日本の生命線と言われた満洲利権にまで触手を伸ばすとは。 おまけに、蒋介石を利用し、シナ事変で日本を国際的に孤立させ、日本をとことんまで追い込んだことが、大東亜戦争の発端であり原因だ。 この、アメリカへの怒りと白人列強に対する日本人の怒りは日本人の総意思であったわけだ。決して軍の暴走などではなかった。一般日本人の突き上げが軍を動かし、天皇が開戦の詔勅を発したのだ。 ドイツも日本も戦後、その戦争責任を国民が回避してきたのは両者ともよく似てはいるが、全く異質なものだ。ドイツ人のずるさと日本人のずるさも同じと言えば言えるだろうが。 追い込まれた戦争と言う点ではドイツも日本も同じであろう。 それにしても、アメリカという国は無用な戦争を仕掛けては自滅しているかのように見える。これはアメリカの根本的体質と言えよう。これは、常に、この国について回るようだ。 懐の深いところを見せるのだが、傲慢さと陰謀で常に自滅する。成功してこそ陰謀なのだが、これは、もはや、病的体質としか言いようがない。このような国が大国であり世界に類を及ぼしているというのも不可思議な世界と言えば言えるのだが現実だ。 アメリカが、ベトナム戦争にまで尾を引いた大東亜解放戦争で学習したことは、あまりに多すぎる。 日本を敵に回してはいけないこと。 人種差別をしてはいけないこと。 原爆は使用してはいけないこと。 神への疑い。 足るを知ること。 白人優位ではないこと。 2000年以上の歴史を持つ天皇を頂く国家には歯が立たないこと。 真の民主主義とは人種差別とは相容れないということ。 シナ人を増長させてはいけないということ。