私事で申し訳ないが、私は元来窮屈なことが嫌いで、日本人特有の和を以て貴しとなすという、慣習には幼い頃より馴染めなかった。これが私の知的能力の発達に障害を与えてきた大きな要因であったような気がする。私が西洋に生まれていたのならば、こうも人生で苦労することは無かったかもしれない。しかし、こんな私でも還暦の頃には日本再認識の機会を得ることが出来たのは安濃豊博士の戦勝解放論であった。今日の日本の保守達のあまりに日本的な、お友達、仲間意識優位、歴史観センスの無さ、論理無視、理論武装の欠如。これは左から右、または宗教界まで共通した運動家の意識の特徴だ。何につけても右に倣えが日本人の特徴だ。時たま、出てくる異能もどきは単に目立ちたいがための異論を唱えるのだが、何ら新奇なものではなく通俗に色を付けただけなもので話題にはなるが記憶に残ることはなく、古典にもならずに忘れ去られる。かって一世風靡した戦後文学界の司馬遼太郎や大江健三郎、村上春樹などがその代表であろう。でもこれら左翼文学者を笑ってはいけない。三島由紀夫の死を憂国的なものと信奉する右翼でさえその方向さえ違え、共に日本人特有な情緒的共感を有しているに過ぎない。だが、おそらく、定義の必要な科学理論の分野ではそうはいかないのであろう。なるほど、アメリカに優秀な科学者達が日本から逃げ出すのもこういう要因があるのだろう。私は世界的な科学者なんかではないが、今、従事しているしのぎのようなものは一匹狼的小銭稼ぎで、組織の苦手な私に合っている。そのような私に博士と同等の知力があるわけでもなく、何々学派と言われても戸惑ってしまう。私はあくまでも、世界的才能を持ちながら淡々と世間的評価に、目もくれず惜しげもなく、独特の博士の世界を我々に提供してくれる一人のファンであって、私たちのようなものの期待なのだ。もともと、一匹狼の博士には学派、派閥は無縁のハズだ。今も、博士の周りに残っている人達はそういう変人ばかりで、それがかっこいいのだ。