三笠宮孝仁殿下は大東亜戦争を俯瞰御出来にならなかった。 | return-of-cd125tのブログ

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相変わらずNHKのラジオアーカイブスに保坂康正氏が登場し、三笠宮孝仁殿下の肉声を上手く利用し、日本人を貶める昭和の語り部番組をやっている。コードネーム若杉参謀としてシナに赴任していた三笠宮孝仁殿下は当時まだ、28歳の若さだ。皇族参謀という名ばかりの地位だけで、実際の軍隊経験もなく、三笠宮様の耳に入るのは荒っぽい軍隊の情報ばかりだったのであろう。お若い公家がリクリエーション気分で合戦に参加するような所ではないのだ。軍隊と言うものも理解しておられなかった。さらに、愚行というべきは、津野田知重と共に東条英機の暗殺という前代未聞のクーデターを企てたという事。、おそらくそれは、彼らが殿下が蒙であることを良いことに利用しただけなのであろう。あまりの大それた暗殺計画に恐れをなして憲兵に讒言したのは、まだ右も左も分からぬ青年皇族にとっては自然の行動であったのだろう。しかし、これは状況さえ違え、平安時代の礎を築いた桓武天皇がその実の弟を無実の罪で罰し餓死させたという史実から考えてみれば、万死に値する行動であった。2.26事件で多くの将校たちを涙の死刑に処した、天皇陛下の御心を察すると、これを不問に付したのもまた、涙であったかもしれない。三笠宮孝仁殿下には最後まで昭和天皇陛下の御心が通ずることはなかったようだ。戦後の、三笠宮孝仁殿下の発言がいかに多くの日本人を迷わせ、左翼に力を与えたことか。そして、現皇族を迄迷わせているのだ。若い時代の、自ずからが加担した暗殺計画の密告という、恥ずべき行動の代償として、運よく左翼の時代の波に乗り、自己正当化と保身のために南京大虐殺や関東大震災の時の朝鮮人大虐殺というプロパガンダに組した罪は小さくはないと思う。それをまた、大々的にラジオのインタビューに応えて発言するとは、その思慮遠望の無さは昔と変わらなかったという事なのだろう。おそらく、当時の日本が置かれた立場、白人優位の人種差別時代という事さえ理解御出来になっていなかったのだ。英霊たちはあちらでどの様に殿下をお迎えしているのだろうか。