鉄と血の世紀
第一部 鋼の意思
大艦巨砲時代の始まり 戦艦の革命 続き
ドレッドノートとインビンシブル、平行して造っていたのです。従来は巡洋艦と、戦艦がセットになって艦隊を組んでいましたが、この時から戦艦と巡洋戦艦のセットになったのです。違いは圧倒的な砲戦力と速力で、従来の、戦力ではとうてい太刀打ち出来ないことになりました。
日露戦終了後、一年もたたない内に、弩級艦(ドレッドノート級)の時代になってしまい、ついこの間までの最新式戦艦三笠、朝日等は一挙に旧式艦に格下げになりました。
上図の戦艦が同一目標を一斉射撃した場合、前後の砲と左右の砲では照準を変えなければならないのです。弾丸の射程距離とスピードが違うため、砲身に掛ける仰角が違うので
注 仰角(ぎようかく) 敵との距離に応じて砲身を上向けにする、その角度のこと。下向けにするときは負角(ふかく) と言う
注 方位角(ほういかく 進行正面を0度とし真後ろを180度として砲身を向けさせる角度の事)
日本も急遽。弩級艦建造を決意し、大慌てで摂津、河内を設計建造しますが前後の45口径30㎝主砲と同じ物を、両舷(両サイド)には採用できず、砲身の短い40口径30㎝主砲を登載することになり、1912(大正元年)に竣工させます。
しかし飛距離や威力の違う二種類の主砲を登載したため、砲火管制(統制射撃)に支障が出てしまい現実的では無いという結論に達したのです。
(注 砲火管制 統制射撃 個々の砲が勝手に撃つのではなく、司令室で目標を指定し、 距離や速度 などのデータを解析し、仰角、方位角、を指定して砲撃する事)
同じ30センチ砲でも、45口径と40口径では弾丸の速度が違うのです。当然到達距離も変わります。砲身の長い45口径では弾丸の速度も速く、遠方まで到達します。40口径ではこの逆になります。その結果同一目標を狙うのに、砲術の計算を二種類しなければならなくなるのです。非常に手間暇がかかり、秒単位で戦況が変化する海戦時には、まったく非合理的なのでした。
何故こんな事になったかと言えば遠因は日本の工業力にあったのです。威力の強い大砲を多数登載すれば一斉射撃の衝撃も大きく、発砲時の衝撃で艦体は激しく揺れ傾き、結果的に砲弾は命中しなくなるのです。これを防ぐためには、艦幅を広げ、重心を下げるために排水量を増やせばよいのですが、そんなでかい艦体を造る造船所が日本には無かったのです。つまり強力な戦艦を造るには、大きな造船所を多数用意する必要が有りました。当時は明治末期~大正初期、新撰組や白虎隊の記憶もまだまだ新しい時代、個々の大砲や鉄砲は、なんとか国産化できても、リアルタイムでの究極兵器、国運を託す最新鋭戦艦の国産化はまだまだ無理だったのです。
左図はドレッドノートクラス(弩級艦)、右図は次章の超ド級艦(超弩級)
日露戦まで日本の主力艦は、その艦名を万葉集や古事記、名所旧跡の名と言った故事来歴から得ていました。その中には当然旧国名(扶桑 山城等)も含まれるのですが、これと言った決まりは無かったのです。しかし日露戦直前、アメリカの好意で戦費調達を成し遂げた日本は、多少の謝意を込め、アメリカのやり方を取り入ることになりました。
アメリカでは戦艦にはテキサスや、テネシーなどと言った州の名を当てていたのです。
日本もこれに習い、戦艦には日向、長門、と言った旧国名を当てることにしました。
さらに巡洋艦(巡洋戦艦も)には山や河の名を当てることにしました。
ですから金剛や比叡、霧島、榛名、有名な四隻の高速戦艦は、設計段階、起工時点では巡洋艦(巡洋戦艦)だった証なのです。
後に太平洋を暴れまくった航空母艦赤城は、元来は巡洋戦艦、同じく加賀は元来は戦艦として世に出るはずだったのです。ですから名前を聞けば、ルーツが一目瞭然、解るのです。設計、起工時点と完成後の姿が変わっても、始めに付けた名前は変えないのが舟作りの万国共通のルール、習慣でした。
超弩級(ちようどきゆう)の気配
超弩級艦、伊勢、型 初代の山城、扶桑二艦の欠点を改良した、第二代、国産超弩級戦艦
なけなしの予算を旧式艦建造のために無駄使いした、海軍は、ここに主力艦国産化計画を、一時思い止まります。これ以降の建造は、ドレッドノートやインビンシブルを凌(しのぐ)船でなければならないのです。いわゆる超弩(ど)級を持たねば、海軍としては、全く無意味だし国民に対して、顔向けできません。その為にも同盟中のイギリスに設計建造を頼むことにしました。
世界一の海軍国の地位を維持するために、英国はドレッドノート号、インビンシブル号、よりさらに強力な超弩級艦を完成させていました。
余談ですが現在も使われている、超弩級の迫力とか、値段とか、切れ味とか、みなこの時代に紙上をにぎわしたのです。超弩級の弩とは、このドレッドノートのド(弩)のこと、昭和20年の敗戦まで、日本では外国の名前には日本語で漢字を当てていたのです。例 倫敦(ロンドン)
つまりドレッドノートより凄いと言うことなのです。これからも語源は忘れ去らても、使い続けられるでしょう。話を戻します。
最後の舶来(はくらい)艦
この改良型インビンシブル号の巡洋戦艦ライオン号は、主砲を34センチにして、大幅な火力強化を計りました。このライオン号をベースに設計し直し、34センチ砲を更に36センチ砲にした艦を、明治43年(1910)英国に発注しました。無論設計は英国です。日本初の超弩級巡洋戦艦、金剛です。完成は大正三年(1914)で、完成時には世界最大の主砲で、日本最後の外国製主力艦になりました。
(注 舶来(はくらい) ヨーロッパやアメリカから輸入したと言う意味、外国でもアジアやアフリカからの物は舶来とは言わなかった)
日本海海戦の翌年1906から始まった前頁中図、弩級艦の時代はたった8年で終わりを告げ、前頁右図の超弩級艦の時代に突入したのです。
(ですから日露戦の翌年、1906年から世界は弩級艦時代に突入しますが、超弩級艦の金剛が、完成する1914年(大正三)まで8年間、日本は弩級戦艦が一隻もない世界的には二流の海軍だったとも言えるのです。)
この金剛に多少の改良を加え今度は日本で、三隻の同型艦を建造する事になりました。比叡、榛名、霧島、の各艦です。この金剛、比叡、霧島、榛名、4隻の高速巡洋戦艦がセットになり、日本も英国並みの、高速艦隊を持てる事になりました。
弩級と超弩級の違いは、弩級より更に大きくなった、主砲の全てを、艦の中心線上に背負い式に配置し、右も左も一斉に撃てるようになり、さらにスピードも、5.5㎞から10㎞近く早くなりました。弩級艦では背負い式に配置された主砲は一部だけで、舷側部分にも配置され、反対舷側に撃てない主砲が必ず有るのです。この時代の海戦は、帆船時代とは違い、海戦距離が遠くなり、両側同時に主砲を撃つ事はあり得なくなっていたのです。
超弩級は弩級に比べ、連装主砲四基8門、五基10門、叉は六基12門全部が敵に向けられるのです。また弩級艦には副砲は有りません、水雷艇撃退用の小砲は装備していますが副砲が無いので日本海海戦の時のような戦艦、巡洋艦などの大型艦同士の接近戦になると、主砲だけではどうしても発射速度が遅くなり、不利になると思われていました。
上図左の艦、(国産初の超弩級戦艦 山城 扶桑)は主砲が二本の煙突の間にあるため、機関室が小さくなり、結果的に大馬力のエンジンが積めず、右図の艦(この欠点を改良した、伊勢 日向)に比べ速度が3㎞程遅い。
(艦隊決戦では、この3㎞の遅れは致命的になる場合が多い)
その点、超弩級艦は主砲を前後、中央に集中配備していますので空いたスペースに多数の副砲を装備でき、近接戦にも有利になると言われていたのです。
しかし多くの軍事関係者は主力艦同士が接近戦を演じる事など、もはやあり得ないと考えていました。
防御力も日本海の教訓で船の中央に有る、機関や火薬庫等の、重要部分(バイタルパート)を、絶対打ち抜かれない分厚い装甲板で囲い、船の前後にある兵員居住区や食堂等の、直接戦闘に係わりのない部分、は小さな隔壁で区切り、被害をその部分だけで食い止めるような、いわゆる集中防御方式に変わりました。この結果日本海海戦の時代は、15000トンクラスだった主力艦は、第一次大戦までの10年間に22000トン、23000トンと大幅に巨大化することになりました。
八、八、(はちはち)艦隊の幻
世界の態勢はますます海軍力増強の機運を即し、日本でも伊勢、日向の後継艦、長門級の設計も殆ど煮詰まり、着工を待つばかり、と言う段になってデンマーク、ジュトランド半島沖で大海戦が勃発します。この海戦の結果、完成間際の伊勢、日向クラスまで時代遅れと言うことにされ、もちろん長門級も大幅な設計変更を余儀なくされました。。。続く