鉄と血の世紀 | ニューヨークフレンチ ヨネザワ 公式ブログ

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              鉄と血の世紀 

第一部 鋼(はがね)の意志
            第一章 大艦巨砲時代の始まり

 




大艦巨砲時代の最盛期に計画され、誕生したときは航空機の時代になっていた
           悲劇の戦艦大和 昭和16年12月18日


1905(明治38)年5月、ロシアバルチック艦隊、と我が、連合艦隊が激突。
英国から購入した旗艦三笠はじめ日新、春日等の最新鋭戦艦の大活躍により、日本の圧勝。この時の戦訓を取り入れ、世界は大艦巨砲時代に突入。
列強各国は競って戦艦の建艦競争に突入。


我が国も日露戦中から、主力艦の国産化を目指し、戦艦安芸(あき)および薩摩(さつま)を、起工(作り始め)し、戦後4年目の、明治42年(1909)に完成させました。


主砲は三笠クラスと同じ、30センチ二連装砲を前後に積みました。この海戦では、本来なら主砲が敵戦艦を攻撃し、舷側の小砲は他の巡洋艦や駆逐艦を狙うはずでしたが、砲戦距離が8000㍍以内、と短かったため主砲も小砲も全部、戦艦を狙ったのです。合間に肉迫する駆逐艦などを狙うこともありますが、殆ど敵戦艦めがけて撃ち続けていました。

その結果、どうせ戦艦を狙う事になるなら”でかい方が良いだろう”と言うことで

この新戦艦は、副砲としては世界最大の25センチ砲12門を搭載し、37キロの高速、19000トンを超える排水量、つまり起工(着工)時点で、世界最大最強の戦艦でした。しかも同時に二隻も。しかし4年弱の工事期間中に、一大事が持ち上がりました。
    


大艦巨砲時代の幕を開けた、戦艦三笠(英国ビッカース社製)日本海海戦の勇姿


戦艦の革命
1906(明治39年)イギリスで一隻の新型戦艦が竣工(完成)しました。我が新戦艦薩摩の竣工する二年以上前、ドレッドノート号の誕生でした。我が薩摩クラスよりは少し小さいのですが、世界各国に驚愕(きようがく)を与え、それまでの戦艦を一挙に旧式艦にしてしまったのです。。
  
(注 驚愕(きようがく) 大きな驚きの事)


どうせ同じ戦艦を狙う事になるなら、全部の大砲が大きい方が良い、と言うのは当時、世界中で共通の認識になっていました。新造艦は次第に副砲が大口径になりとうとう20センチにまでなったのです。我が国の薩摩クラスもそうです。


しかしこのドレッドノート号は副砲などと、面倒なことを言わず、全部主砲にしてしまえ、と言うことで、30センチ連装砲5基10門を積みました。単一巨砲主義の、究極です。弾薬も主砲用だけですみます。従来の戦艦は主砲は4門でした。戦艦同士の戦いでは、巨砲の数の多い方が勝つのです。


仮にこのドレッドノートと我が、薩摩が戦ったとすると、10門中8門の主砲が薩摩に撃ち込まれます。 2門は反対舷に付いているので撃てませんが。

一方薩摩の方は、前後2門ずつの主砲、合計4門しか撃てないのです。主砲だけしか届かない遠距離戦では、8対4になり、まともには戦えないでしょう。しかもこのドレッドノート、日本海海戦の結果を見て、直ぐに建造を始め、僅か1年3ヶ月で、完成させたのです。世界各国通常は、3年半から4年以上、戦艦建造の、スピード記録でした。


それまでのミリタリーバランスが大幅に崩れ、建造中の我が戦艦薩摩、と、安芸は完成を待たずに、旧式艦に成ったのです。この時の全ての日本国民、当事者の海軍の悔しさは、想像を絶するものでした。実際に命がけで戦った当事者よりも、見ていただけの、英国の方がきっちりと的確に、戦闘から教訓を得たことになります。情けない話です。

もっとも、イギリスはこの時、6隻の戦艦を一度に造っていましたが、他の5隻は全て、前弩級艦、いわゆる、我が薩摩、安芸と同じようなタイプ、主砲は4門だけ、他は舷側部に多数の小砲を持つ、船でした。工業力、経済力の、明らかな差でした。ゆとりを持って一度に6隻を造り、その内の一隻だけ、試しに実験艦を造ってしまう。失敗作でも一隻ぐらいまあ良いか、まさにゆとりの勝利です。貧しい日本の場合は、新しいことを考えても、金も工業力もありませんから、もし、失敗作になれば、ゼロになってしまうのです
。死にものぐるいで、付けた予算を、無駄にしてしまう危険のあることには使えません。


戦艦の革命児、ドレッドノート 右図、主砲配置に注意


一方この薩摩、安芸、に先立ち、軍艦国産化の第一段として、巡洋艦筑波を日本海海戦の少し前から建造していました。日露戦終了までは、主力艦と言われる、戦艦、巡洋艦は、日本では作れず、殆どイギリス、フランス、ドイツ、希にアメリカ、で造られていました。文明開化以来、外国に頼っていた、主力艦を、日本独自で揃える必要性を、政府も国民も痛感するのです。この装甲巡洋艦筑波は4隻造る予定の第一艦です。


この筑波はそれまでの巡洋艦に比べ、主砲は戦艦と同じ30センチ砲4門、速度は43㎞で、 防御力だけが巡洋艦と同じ、後の巡洋戦艦(巡戦)の誕生になるはずでした。 が工事中に、これも英国で、巡洋戦艦インビンシブルが出現し、この筑波も、完成を待たずに、旧式艦になってしまいました。インビンシブルは30センチ砲8門、速度は50㎞でした。


この、ドレッドノートとインビンシブル、平行して造っていたのです。従来は巡洋艦と、戦艦がセットになって艦隊を組んでいましたが、この時から戦艦と巡洋戦艦のセットになったのです。違いは圧倒的な砲戦力と速、、、続く