日本海軍戦艦物語、鉄と血の世紀 | ニューヨークフレンチ ヨネザワ 公式ブログ

ニューヨークフレンチ ヨネザワ 公式ブログ

レストランの各種お知らせ。自身の人柄紹介





前号より

000トンクラスだった主力艦は、第一次大戦までの10年間に22000トン、23000トンと大幅に巨大化することになりました。

戦艦の大砲の基礎知識
ここで大砲の種類や数え方について基本的なことを書いてみます。若い人たちは知らない人も多いでしょうから。

まず戦艦の大砲には三種類あると思ってください。
第一は主砲、この数と大きさで戦艦の威力が決まるのです。ですからカタログ上はこれが一番重要で、対抗策を講じたり、軍縮条約で制限を加えたりも、おおむねこのことにつきるのです。


第二は副砲、主砲に準ずる大きさの大砲で、大体、主砲の数よりはたくさん装備しています。接近して攻撃してくる高速の駆逐艦などの小艦艇を攻撃するためです。主砲に比べて発砲速度が速いので、近接戦には主砲より格段に便利なのです。しかし日本海海戦の教訓から1万メートル以内の接近戦では、主砲とともに主力艦を攻撃することも可能な、準主砲的役割も期待されていました。つまり副砲とはいっても、巡洋艦などでは主砲にするぐらいの大きさの大砲です。(一五㌢から二五㌢位)

第三は小砲、高速で接近し魚雷を撃ち込む魚雷艇(水雷艇)などを撃退するための5~12㌢程度の砲です。弾丸が軽く小さく、発射速度が早いのが条件になります。つまりこの時代は25㌢位までは一発々々手で弾丸を込めていたのです。この三種の砲が戦艦には装備されていたのです。

また数(本数)は門と数えます 一本、二本ではなく一門、二門と数えます。また大砲が備え付けられた建造物を砲塔と言います。数え方は一つ、二つ、ではなく

一基、二基、と数えます。二門備え付けられていれば連装(砲塔)、あるいは二連装(砲塔)、三門であれば三連装(砲塔)、また日本にはありませんでしたが、イギリスやフランスには四連装というのもありました。

また㌢で表される数は大砲の筒の内径のこと。つまり砲弾の円周の直径、と言うことです。つまり㌢の数が大きい程、大きな砲弾、大威力な砲弾と言うことになります。さらに口径というのは、筒の直径の倍数、つまり数が多い程、長い砲身と言うことになります。砲身は長いほど弾丸の速度は速くなり、破砲壊力も増すのです。

初の国産超弩級戦艦、山城に例をとれば、45口径36㌢連装砲、6基12門と言うことになります。このことを頭に入れて読むと、非常にスムースに読んでいけると思います。


戦艦搭載砲三種 
上図左 連装砲と砲塔 屋根の上の横棒は距離を測るレンジファインダー
上図中 大和型、45口径46㌢三連装砲と砲塔 前部72センチ厚装甲板 天井部27センチ厚      装甲板 

上図右 40口径15センチ副砲 砲弾は手持ちで装填する。兵員と砲の大きさを比べてください
下左図、砲塔形式の単装砲 後ろ側は仕切りがないものが多い 
下右半面 上右図の副砲の取り付け方。大和型以前の日本戦艦は全てこの形式 このような   方式は砲塔形式とはいわず砲郭(ほうかく)形式と言う  


八、八、(はちはち)艦隊の幻
世界の態勢はますます海軍力増強の機運を即し、日本でも伊勢、日向の後継艦、長門級の設計も殆ど煮詰まり、着工を待つばかり、の段階で、英国グランドフリート(本国艦隊)戦艦巡戦、計38隻と、ドイツ高海艦隊(ハイシーズフリート)戦艦巡戦27隻の艦隊決戦が起きます。
デンマークのジュットランド半島沖、1916(大正四)年5月末の事でした。

この海戦の直前、日本は大艦隊を整備するために、長門級以上の戦艦八隻と、新型巡戦四隻を基幹とする、八、四、艦隊案を議会通過させます。海戦の結果を見て、巡戦を重装甲に改訂し、大正九(1921)さらなる増強案、八、八、艦隊案を議会通過させます。

内訳は40㎝砲(戦艦)加賀、土佐、 (重装甲巡戦)天城、赤城、高雄、愛宕さらに (高速戦艦)紀伊、尾張、級4隻、さらに46㎝砲10門の高速戦艦4隻
この八、八、艦隊を10年ごとに取り替え常に、艦齢10年以内の新式艦だけで構成しようとしたのです。まさに当時の国家予算の約10年分という膨大な費用です
主砲は、巡戦8門、戦艦12門、同じ、36センチで統一され、計画の最初の段階として、巡戦4隻、戦艦4隻の四、四艦隊が勢揃いすることになったのです。


下図は戦艦伊勢、砲塔配置に注目



上図伊勢型 二本の煙突と二基の砲塔がまとめられました二本の煙突の真下が機関部なので大きなエンジンが積め、スピードが速くなりました。


第一次大戦の直前、日本が手にした、英国製超弩級艦金剛は、以後日本戦艦の手本となり、このクラスとペアを組ませる意味で、扶桑、山城、伊勢、日向、の4隻が建造されることになりますが、扶桑山城、を建造中に、主砲配列が、機関馬力に、影響を与えることが解り、伊勢、日向の二隻は、急遽手直しをされます。その結果、扶桑、山城では、43㎞しか出なかった速度が、伊勢、日向、では、46㎞、に改善されました。
この3キロの差が当時は艦隊決戦の勝敗の分かれ目になるほどの差、と考えられていました。
          

超弩級の意外な欠点、ジュットランド半島沖海戦

            両艦隊合わせて主力艦合計55隻、補助艦120隻が入り乱れての大乱戦です。
巡戦はその優速を生かし敵戦艦部隊の進路を妨害するように前方に立ちふさが。。。続く