中越地震から10年。
2004年10月23日、震度7の地震が、地元の隣町・川口町を襲いました。
うちの地元も震度6という扱いでしたが、
多分震度計があるところよりはるかに川口に近いから、
おそらく震度7あったんじゃねぇかと推測している次第です。
過去何度かこのブログでも触れてきてますし、
何から書いて良いかまとまらない感じです。
正直10年という月日は長いようで短いようですが、
やはり記憶を風化させるには十分な年月でありまして、
あれほどの衝撃を受けた事なのに鮮明に思い出せる記憶が減りつつあります。
元々、注意喚起させるためにここに書くつもりは毛頭ないですが、
体験した以上は、なんかしらの形で残していきたいなーと思いましてね。
まず、地震発生時は家にいて、録画したどうでしょうリターンズの
ビデオを見てたと記憶しております。
突然、体が後ろに吹っ飛ばされるほどの揺れがあり、
それが地震と気付くのには少しの時間を要しました。
ホント、なんだか分からなかったですね。
しばらく震度6前後の余震が続いて逃げるタイミングが分からなかったですね。
しばらくして外に逃げて、近所の家の車に一時的に乗せてもらった記憶あります。
ある程度落ち着いてからは実家の軽トラへ。
俺が腰痛を訴えて、同じく実家の乗用車に乗り換えた記憶があります。
ずっとニュース聴いてたら気が滅入ってきて、
桑田佳祐のラジオを聞いたらここでも随時余震の情報が流れてて、
事の重大さを改めて痛感しましたね。
町中の電気は消えていて、車のライトくらいしか見えなかったです。
とにかく真っ暗だわ、余震は来るわ、この先どうなるかという不安もあるわ、
不気味でしたね。
翌日明るくなってから、ブロック塀が壊れてたり、道路が割れてたり、
マンホールが飛び出てたり、電柱が倒れ掛かってたり…
ここでようやく被害状態を把握したわけで。
確か親父と飲み水とかどうなってるかを把握するために、
避難所になりそうな場所を歩き回った記憶があります。
近所の、母校である中学校へ行くと、
既にテントが張られていたりSOSの文字があったり。
テレビで地震のニュースとかがあった時に見るアレじゃん!みたいな。
まさかこの状況下に自分が置かれるとは思いませんでしたね。
アレ、他人事じゃなかったんだなって。
結局、面倒くさいから山の水を沸かして飲むという決断になりましたが。
友人関係でいえば、
まず地震当日の深夜にB's君が原付だかで来たのを覚えてます。
俺の家に来た事ある人は、絶対にあの地震で俺の家が潰れたと
思ったでしょうし、俺自身潰れなかったのが不思議なくらいです。
翌日辺りにアルプル、gpとそれぞれ会った記憶があります。
アルプルとは、崩壊した道路を見つつ、何かを喋ってたような。
後々、このうちの2人だか3人で市内一番の避難所を
自転車で視察しに行きました。
部活の先輩が爆笑しながら 「 俺んち潰れた 」 って言ってて、
思わず俺らも爆笑してましたが、なんとまぁ不謹慎な。
本人が笑ってたからいいか感ありますが。
その後、学校が1週間で再開される話が出て、
まだ余震も止まってないし、道路は陥没、マンホールは突出…
この状況で登校して何になるんだと激怒してた覚えがあります。
さすがヒットラー校長。 分かる人だけ分かってくれればいいネタ。
その後、部活も再開…ですが、いかんせんうちらの練習場が
地震によって半壊扱いで立ち入り禁止に。 避難所にすらならないという失態。
廊下で走ってたんだか何だかもう忘れましたが、
時々他校に出向き、合同練習とかをする…という状況がしばらく続きました。
その際も別に他校の人と話すわけでもなく身内で盛り上がる
俺らクオリティ。 俺らっていうか誰よりも人見知りしてるのは俺ですが。
そして俺らの中での流行語が 「 地震の影響で 」 。
最初はれっきとした理由として成立する事に使ってたんですが、
だんだん関係ないところで使われ始めて、
「 何、その点数 」 「 いや、地震の影響で… 」
「 何で昨日部活ボッたが? 」 「 いや、地震の影響で… 」
「 何で君友達少ないの? 」 「 いや、地震の影響で… 」 みたいな。
今でいう 「 妖怪の所為なのね 」 的な感じです。
10年先を行ってました。
というわけで、甚大な被害の中を懸命に生き抜いた少年のお話でした。
綺麗にまとめようとすんな。
そもそも23日に間に合ってない時点で完全にダメなわけですが、
一応元となってる文章は23日のうちに書いてるんで許してください。
もっとまじめな回想記読みたかった人はごめんなさい。