RB1195 地震と消えゆく記憶と | REGULAR BONUS

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31歳のダウナーな人による、 日々のREGULAR BONUSな瞬間…というかヤだなぁと思った瞬間とかを綴るブログ。

こんばんは、Restです。


日付変わって10月23日。 中越地震から8年を迎えました。

震源地は地元のすぐ隣町。 山で繋がってるようなものなので、

我が地元、特に川から東側は甚大な被害を受けました。

まだ高校生だったので当然実家暮らしでしたので、

避難生活を余儀なくされました。


あまり避難生活を送った事ある人って居ないと思うんで、

改めて少し振り返りたいと思います。

過去の日記と照らし合わせればいいんでしょうけど、

おねむの時間が近づいているので記憶だけを頼りに行きたいと思います。

振り返る気あるのか的な。



地震が起きてしばらくは何が起きたのか分かりませんでしたね。

今まで経験したことのない衝撃だったので、あれが地震だと分かるには

相当な時間を要しました。

実家は大正時代に立った家らしいですが、奇跡的にも倒壊せず、

脱出できましたね。 当時は本当にもう二度と住めないと思ってました。


当日は勿論車中泊。 寝たのは俺くらいだったそうな。

翌朝。 良く晴れてたのを今でも思い出します。

初めて目の当たりにする被害の状況に絶句したもんです。


とにかく、電気が復旧するまでは地獄でしたね。

うちの近辺は殆ど自主避難だったので、暗くなったら寝るしかない。

街灯一つつかず、ヘリのライトが時折見えるくらいの街並みは

ものすごい恐怖感を煽ったし、不気味な光景でしたね。

水道は田舎だったので、山の水を引っ張ってきてる家が多く存在したので

その水を拝借して沸騰させて使ってたので問題なかったし、

ガスとかも最低限鍋用のコンロとかがあるのでとりあえず大丈夫。

10月と言うこれまた奇跡的な気候もあり、風呂も入らなくても大丈夫でしたし。

とにかく、電気でしたね。

電気の大切さをあの場ほど感じた物はありませんでしたね。


とはいえ、給水車などを確認するため、各避難所を一通り見て回ったことも。

数年前まで通っていた中学校へ。

SOSと書かれたグラウンドで、炊き出しが行われていました。

ある意味、一番今置かれている立場を実感しましたね。

「 ニュースとかに出る側になったんだな 」 と。 まさかこんな目に遭うとは。


電気の復旧も3,4日目には完了して、何とか一日が伸びることになりました。

テレビを見て初めて市内、市外の状況を知ることが出来ました。

そのテレビが置いてある車庫では食事とかはとれますが、

寝泊まりは出来ないので隣の家の車庫で一緒に寝泊まりさせてもらってました。

この車庫寝生活はかなりまで続いた記憶があります。

実家に完全に戻ったのが1ヶ月経つかどうかくらいだったんで、

その辺まではお世話になってましたね。



飯は最初のみ冷蔵庫中身の処理で豪華で、あとは物資の菓子パンとかでした。

あれだけ好物だった、ジャムバターパンが震災後食えなくなりましたね。

喰い過ぎて。 とにかく、物資の配給はいいんですが賞味期限が

切れてたりするんで、ひたすら消化に追われてたので喰わざるを得ない。

他に食料も無いですしね。 ありがたいのは当然ですが、飽きました。

途中からマジックライスとか出てきて、物資にも幅が出来ましたが。



街中のいたるところに自衛隊が居るのも、当時高校生の我々には斬新でしたね。

迷彩柄のジープはそこらじゅう走ってましたし、

飛行機だったかヘリだったかが編隊を組んで飛んでるんですよ。

「 かっけぇー!! 」 とか言ってはしゃいでました。 男の子ですな。

自主避難だったんで、炊き出しのお世話になった記憶は無いんですが、

自衛隊の風呂には入りましたね。

外見は大きいテントみたいな感じで、中は脱衣場→浴槽と続いてました。

もっとせまっ苦しいかと思いましたが、ちゃんとした風呂で驚きましたね。


風呂があったのは小学校のグラウンドでしたが、

集合地になってたのかなんなのか知りませんが、うちの高校のグラウンドには

これでもかというくらい自衛隊の車が止まってました。

当然、それなりのところに行ったからか、学校入口の道が汚れるので、

自衛隊の方自らが掃除してました。 その姿にさすがの俺も、

「 いいですから、掃除なんて! うちの教師がしますから! 」 とか

口に出したかったですね。 お前が掃除するんじゃねぇんだ。


おそらく復旧活動にも俺らの目には映らないところでも頑張っていてくれたはず。

今は居るかどうか分かりませんが、あまり軽々しく

「 自衛隊反対 」 とかの活動を行わないでもらいたいもんですね。



結局、完全に元の生活に戻ったのはいつごろだったでしょうかね。

比べるのもおこがましいかもしれませんが、

今の東日本大震災と違って、メディアが報じてた期間にも限りがありましたし、

当然報道が殆ど終了しても普通の日常など返ってきませんでした。

電車はバスの代行運転がしばらく続いたし、

道はマンホールが飛び出てたり、荒々しい応急処置だけだったり、歩道が落ちてたり。

学校も、体育館の一つである講堂が地震の影響で使えなかったので、

まともに部活が出来るようになったのはかなり後の事だったと記憶してます。


結局、あの地震で、

部活帰りに毎日寄ってた憩いの場・スーパー原信が潰れ、 RB992 より 】

部活の合宿で2年連続で泊まり、疲れも癒せない寄宿舎が倒壊し、 RB685

授業が大幅に遅れ、そのしわ寄せはどうなったか定かでなく、

菓子パンが当分の間食べられなくなり、

6年続いた手書きの日記が終了せざるを得なくなり、

バドミントンは下手になり、

俺の顔は悪くなり、

それでもその苦難を乗り越え、今では記憶が怪しいまでに至ってます。

後半地震関係ねぇじゃねーかという苦情は受け付けておりません。



記憶が怪しくなってきたのは、単に時が過ぎただけなのか。

従来の生活と変わりなく、いや従来を超えた生活を取り戻したから

「 古い 」 記憶が遠ざかったのか。

それは定かではないですが、地元・小千谷は確実に、一歩ずつ

さびれていってます。 台無し。 地震とか以前の問題でした。