先日放映された『鶴瓶の家族に乾杯』に、知り合いが出ました。

ゲスト俳優の佐藤健氏が滋賀県大津市の比叡山延暦寺に、千日回峰行を極めた阿闍梨さんを訪ねて行く道中。窓口となるお寺の事務所でお話をされていた女性です。

 「テレビに映るかどうか分からへんけど、9月の末に放送されるから見てね」のメッセージを人づてに承りましたので、"映っても一瞬だろうな"と目を凝らしていたのです。が、しっかり1分間くらい1対1で健氏と対話をされていてビックリしました。名前も字幕に出ていたし。「実際はもっともっと沢山話をしたんよ」と、後になって聞きました。


 佐藤健氏……「仮面ライダー電王」の主人公として、弱っちいキャラだけどカッチョええなと、初回から毎週楽しみに見ていました。大河の「龍馬伝」の岡田以蔵役も、今までの殺人鬼っぽいイメージとは違い、どこにでもいそうな悩める10代の役作りに好感を覚えていました。


 しかし、今回のブログはタイトルにある通りで、鶴瓶師匠のことをお話いたします。


 あれは今から40年前。

 私、小学6年生になって間もない頃。

 この年の春、サラリーマンだった父が九州福岡へ転勤となり、続いて私たち家族も夏休み中に引っ越しをすることになっていました。

 何しろ40年前のこと。時代は大阪万博の3年後。山陽新幹線が開通してはいましたが、にしても岡山どまり。

 小学6年の私にすれば関門海峡のその先は、もう異国の地。九州の方、ゴメンナサイ。しかし、当時としては正直そう思っていました。言葉、通じるのかなぁ……。

 物心ついてから長らく京都暮らしの私にとって、引っ越しするまでの数か月間の気分は超ブルー。転校する事実さえクラスメイトにもなかなか言えずで……。


 そんなある日のこと。(多分ゴールデンウイークあたり)

 友達のS君が、「今度なぁ、近くの建物の二階で、ラジオの公開放送があるんや。驚いたらアカンで。ツルコウが出るんやで。一緒に行かへんか」と誘ってくれたのです。

 ツルコウ……ツルコウ?……誰だ、それ?

 12歳の私は芸能人の名前に疎く、もしかしたらお婆ちゃんが時々言っているツルタコウジという人かもしれない。しかしツルタコウジがどんな顔かは知らない。何者かも知らない。

 けれどとにかく誘われたのだから行ってみよう。だって、このS君とも間もなく永遠のお別れの日が来るんだから。最後の想い出創りだ。どうせ私ゃ、間もなく流刑の身。シャバの空気を吸うだけ吸ってやるぜ、みたいな。

(ホント、九州の人、ゴメンナサイ)


 で、当日。

 自宅から歩いて10分。比較的大きな通りの交差点の建物の二階。ここに当時の近畿放送(現在はKBS京都)のサテライトスタジオがありました。

 「わいわいカーニバル」という公開番組。

 収録開始時刻より数10分前に到着。椅子が何脚くらいだったかな……多分50人程度は座れたような記憶があるのですが、みんな大学生くらいの"大人"ばかりで下手な場所に座ると何も見えない。だから最前列に着席したわけです。

 「うわ。ツルコウがいる。ほら、あそこ、ツルコウがいる」。S君が小さくトキメイタ声で言う。「サインもらいに行こけー」

 私は誰がツルコウなんだかスタッフなんだか見分けがつかない。袖でスタンバっている男性に用意していた無地の紙をオズオズと差し出してS君がサインをもらった。それに倣い、私もサインをもらう。「ああ、この人がツルコウという人なのか……」

 その隣、さっきから気になっていたのだけれど髪の毛がモジャモジャの黒メガネ。オーバーオールを着た人がいる。

 「あの人も芸人さんやと思う。多分ツルベ―や」……ツルコウの次はツルベ―?

 「サインもらいに行こけー」

自分の似顔絵を書き足して、そのモジャモジャさんはサインをくれた。


 やがて公開放送の収録が始まりました。

 しかしこの時の詳細、全く覚えていません。華やかな時間が流れれば流れるほど、私は九州行きの現実を思い出していたからです。

 私は子どもの頃から、こういう性格でした。

 周りでお客さんが大声で笑えば笑うほど、私は孤独になっていったのです。

 「はぁ……この楽しい世界。島流しまでの猶予の身には居たたまれないよぉ……はぁ……」

 (九州の人、ホントにホントにゴメンナサイ)


 私、収録中も浮かない顔をしてたのかもしれません。


 とその時、かのモジャモジャ君が私の前に突然立ちはだかったのです。

「え?」

 その日、私は半ズボンでした。薄いジーンズの生地で青が基調、ポケットが白の配色。で、いわゆる"社会の窓"はジッパーではなく、ホックが6個くらいついているタイプのものでした。

 モジャモジャ君は突如、その社会の窓のホックをブチブチブチ!と両手で開放したのです!

 「キャー! 何すんねん!」。

 心の中で絶叫する赤面小学6年生のボクのうろたえる顔を見て、モジャモジャメガネ君は二チャーっと笑ったのでした。何とも言えない二チャーっとした顔で。

 その刹那、

 私の抱え込んでいた超ブルーな重たい空気が、一瞬にして破壊されたのでした。


 素人イジリの天才ぶりは、この頃から発揮されていたわけです。

 土足で入ってきて、いきなり笑かしよるねん。

 私は赤の他人のモジャモジャ君が大好きになりました。


 後で知ることになるのですが、彼は大学を中退した後、笑福亭松鶴師匠の門下に入っての一番最初の仕事が、「わいわいカーニバル・小噺コーナー」だったようです。


 二年後、福岡県暮らしから千葉県暮らしを経由して再び京都の地に戻った中学二年生の私は、「鶴瓶」という名前がラジオ番組のメインパーソナリティのレギュラーとして活躍していることを知り、誇らしくてたまりませんでした。収録場所を丸物百貨店に変えた「わいわいカーニバル」も鶴光師匠から引き継ぎ、メインになっていました。

 


 以後、私は笑福亭鶴瓶師匠から様々な影響を受けることになるのですが……今回は、ここまでということにします。