アテレコの仕事を最近になって時々させてもらっている。

と言って、外国語からのいわゆる“吹き替え”ではないし、アニメへの“吹き込み”でもない。


「CS障害者放送統一機構」という法人の中に“聴覚障害者のための聴覚障害者中心のテレビ局”がある。

「目で聴くテレビ」という番組タイトル。

聴覚障害者自身がキャスターやカメラマンとして番組制作に参加している。

ニュースや地域の話題からスポーツ、手話学習、災害時の情報まで、手話と字幕でさまざまな情報を発信して、今年で放送開始から17年目となる。


例えばろう者の戦争体験。

例えばろう者のための施設建設。

例えばろう者の想いをlまとめた個人史の出版。

そうした経験や運動を、当事者が手話で語られている時、その手話言語に音声を乗せるのが私の仕事だ。


40代以上のろう者の手話に声を「あてる」人が少ないようで、私が担当するようになった。昨日は80歳を越える年輩の方の声をやらせてもらった。


やってみてつくづく難しいと思うのは、手話のタイミングと音声のタイミングが合わせにくいということだ。

ご存知でない方も多いと思う。

手話というのは日本語を日本語の語順のままに「置き換えて」表しているのではない。手話には手話の語順(文法)があり、しかもそれは英語なども含めた音声言語とは全く違う特質を持っていたりもする。

分かりやすい例えをあげると、

手話を話している人の右手がAという人格(感情)の表現を、左手がBという人格(感情)の表現をそれぞれ同時に受け持ち、使い分けることがある。更にその両手(AとB)とは別に、話して自身の顔(表情)が当人の感情を表すこともある。

手話と音声の違いは、それ以外にも沢山あって、音声言語では長々と語らなければならないところを、手話であれば瞬時に伝えられることも多々ある。(逆の場合もある)


これまで台詞を言いながら同時に手話を表すことを自劇団の役として何度も演じたことがあるから、そこにズレが生じる大変さはわかっている。けれども、それはあくまで台詞を語っているのが私であるから、何とか間をとったりして自身のペースで無理にでも調整?できるのだが、あらかじめ録画されたろう者の手話の場合、「視聴者に」いかに違和感なく声を当てはめるかが求められるわけだ。

語られている方の手話がまだ始まっていないのに、音声の尺に合わせるためにフライングして発声するわけにはいかない。手が動いていないのに声が出れば、手話を知らない人が見たって「それはないだろう」と思うはずだ。


難しいのはタイミングだけではない。

感情の問題もある。


これはろう者に限ったことではないが、インタビューを受ける方の背景には相当なご苦労と当事者にしかわからない経験の蓄積がある。

私にその痛みが理解できるのか。たとえ一割でもその方の感情に近づいているのだろうか。

だが一方でまた、別の想いが私にはある。

過日以下のような台詞があった。

「なぜ障害者手帳をもらえなかったのか」

「婚姻届けが10年も遅れたのか」

「ろう者を生んだ母に対しての父の暴力」

「他のろう者が断種させられた」……。

この言葉の裏には聴覚障害者が自分たちの想いを伝えられなかったり、生きるための情報が全く得られないこと、音が聞こえないことによる偏見、差別、痛み、悔しさが強烈に内包されている。

そして、それゆえに、

声を担当する私にとって、

感情の同調以上に、

ここがもうどうしようもなくジレンマとなるのは、

特に年輩のろう者が「声」を発することができないことが苦しみの体験の核であった場合、私の声が入ることで、本当の何かが薄まるのではないか。

「声」をあげられなかったからこそ、かつて全国に手話通訳者を増やす運動を展開し、自分たちの想いを世の中(聴者の社会)へ伝える人を増やしていったのだ。

そこのところを私などが雄弁に感情を乗せて上手く「肉声で」語ることが、果たして表現として良いことなのかどうか。


誤解して欲しくないのは、私はアテレコを否定しているわけではない。

聞こえる私の「肉声」が、ろうの方の「声(=想い・願い)」にどう寄り添うべきなのかを、悩む。

ろう者の想いを伝達する「声」を模索する。声でありながら、声だけに留まらない何かを。

技術ではない何かを。


これからも私は何人ものろう者の「声」を担当するだろう。

とても怖いのだけれど、

もしかしたら、

出会いの中で、何かがみつかるかもしれない。