今、執筆中の戯曲。
このブログでも一度思いを記したことがある。
今から54年前に、日本で初めての手話サークルが京都で誕生した。
それまでも例えば、親や兄弟にろう者がいる家庭で育った「特別な環境の人」が「必要に迫られて」手話を獲得する人はいた。そういう人でも、人前では手話を隠す風潮があった。“手話は動物的で気持ちが悪い”、“手真似は目障り”、今では偏見に満ちた言葉も、当時の新聞の投書欄に平然と載っていた。そんな時代。
一方で、ろうあ協会でも大学で福祉を専攻する学生相手に不定期で手話講座を開いていたりもしたが、卒業後まで続ける人はいなかった。
ろうあ団体側も焦燥感が生まれていた。所詮、聞こえる人は手話学習を興味本位で腰かけくらいにしか考えていないのではないか。ろうあ者の生活実態まで熟知し運動の輪の中に入ってくれる人など、ほんの一握りしかいないのではないか。
そんな中、京都の定時制、正確には同志社商業高校の夜間学生が、あるキッカケで一人のろうあ者と知り合うことになる。
学生は昼間は総合病院で働く“看護婦さん”。いわゆる勤労学生であった。当時21歳。彼女の親族にはろうあ者はいなかった。たまたま出会ったのは胃潰瘍で入院していた男性ろう者。担当医師は「患者のくせに」「病人のくせに」「素人が偉そうに」と邪険な言葉を患者に浴びせ続けた。男性ろう者は、元々は医大生だったのだが、中途失聴したため医師への道を断念した経緯がある。医学的知識があった彼は、担当医に率直な意見を言ったのではないかというのが私の見方なのだが、とにかく病室では常に喧嘩が続いたという。
看護していた勤労学生の女性は、当時は准看護婦で、正看護婦ではないために意見を言える立場でもなかった。しかし内心では医師ではなく患者の言葉のほうにこそ「理がある」と思った。本当の看護とは何だろうと考え始めた。患者の立場に立つことを考え始めた。
彼女は手話を学びたいと思う。だが、当時の京都には、いや日本中を探してもそのような学び舎はなかった。
その頃の京都市民の人口が120万人。公的に手話通訳ができる健聴者は、たったの二人だった。
彼女は、そのうちの一人の門を叩く。
福祉センターに勤める健聴の男性は次のように言う。
「とにかく仲間を集めなさい。一人では越えられない壁も、仲間がいれば助けてくれるから」と。
夜間高校で同志を求めると、すぐに何人かの共鳴者が現れる。彼らは一様に貧しく、勉強したくても親の会社が倒産したり、戦争や病気で両親を亡くしたりして昼間の学校には通えない。常に「昼の学校にも通えんアホな子や」と陰口をたたかれていた。
更に看護婦さんの呼び掛けに同調したのは、集団就職で地方から出てきた若者たち。世の中では金の卵ともてはやされてはいたが、実態は西陣の零細企業に就職し、徒弟制度の末端としてこき使われていた若者たち。彼らは国元の訛りがなかなか通じずバカにもされており、言語的孤独も抱えていた。
10人ほどが集まって、先の通訳者を顧問として手話の学習が始まった。
ろうあ者の置かれた環境を他人事とは思えない会員ばかりだった。
今でこそ、テレビで手話講座があったり関連本や辞書があったりするが(それ自体が後の運動の成果なのだが)当時は参考書など何もない。
しかも昼は仕事で夜は学校。寝る間を惜しんで励むしかない。とにかく実際のろう者を呼んでは手話を学ぶことの繰り返し。一方で教える側のろう者も「こんな子たちがホンマに続くんやろうか」と半信半疑だったそうだ。ろう者はろう者で、健聴者が逃げていく後ろ姿ばかりを見てきたから。
この会を“京都市手話学習会みみずく”という。(当時は学習会ではなく「研究会」と呼んでいたそうだが、前例のないパイオニアとしての立場を考えると頷ける)
猛禽類のみみずくは夜に活動をする。昼間は職場にいて、夜になって本来の自発的活動をする自分たちの生態になぞらえたネーミングだった。他にも命名の由来はいくつかあるようだが、この理由が、立ち上げメンバーにとって一番の決め手になったのではないかと私は推察している。
一人の看護婦さんが立ち上げた手話サークル活動は、試行錯誤を繰り返しながら現在も続いている。続いているどころではない。今では会員数500人を超すマンモス集団に成長している。そのサークルには長く続けている人もいれば、二カ月くらいで退会する人もいる。出入りは激しいが、逆に言えばここで手話に出会った人は、発足以来の54年間で延べ何万人になるだろうか。(ちなみに私も劇団を立ち上げるまでの二年間、みみずくに通って手話を学んだ)
当時の夜間学生たちの居ても立っても居られない衝動が、やがて日本全国にも草の根の如く波及し、与えた影響は計り知れない。
さて、前振りが長くなった。
私が書いている戯曲の話に戻そう。
昭和38年、手話学習会みみずくが発足して一ヶ月経った頃、一人の聴者が入会した。この青年こそが、我らが劇団で強烈かつ異彩な個性を放ち続けた怪優のYさんだった。
若い時に奥さんを病気で亡くされおり、私が知り合った時は障害者施設のお掃除お祖父さんだったが、その笑顔には万人を引き付ける不思議なオーラがあり、それがそのまま役者として舞台上で炸裂するや、お客さんは、つられて全員が笑った。Yさんが笑うと、観客が意味もなく愉快になって笑ってしまうのだ。それはそれは恐ろしい役者さんであった。
そのYさんが数年前に突然亡くなった。私個人としてだけでなく劇団としてもショックは大きく、本当にポッカリと大きな穴が空いたような喪失感だった。
亡くなって三カ月後、有志が集まって偲ぶ会を開く。劇団からは私が担当。みみずくからも初期会員であり今やみみずくの生き字引と敬われている方が世話人となり、年代を問わず接点を問わず、本当に沢山の方が偲ぶ会に集まってくれた。
その時に恥ずかしながら私は初めて知った。
彼が、みみずく会員のうちで初めてろうの女性と結婚したことを。(以来、みみずくでは立て続けにろう者と聴者のカップルが多数誕生していくこととなる……)その新婚生活がNHKでドキュメンタリー化されていた。白黒の映像は偲ぶ会で流された……奥さんは驚くくらいに綺麗な方で二人して人生の荒波に乗り出された姿を、私は見てしまった。
みみずく初期会員の方の熱い情熱の中に、若い二人は間違いなくいた。テレビには会員たちの姿や例会の様子も収録されていて、そこに写る聴者とろう者は、みんな10代20代の若者たちだった。
Yさんはろう女性と結婚したことで実家から縁を切られる。
そこから彼の本当の人生が始まったのだと、当時の姿を思い出しながら感慨深く語られるみみずくの初期メンバーたちの一言一言に、私は心を動かされた。
それが戯曲執筆を決意した動機だ。
私はYさんの結婚までの経緯、みみずくがヨチヨチ歩きだった頃の姿。ろうあ者と活動を共にする青春群像劇を今、書いている。脱稿まであと2ヶ月くらいか。
中で、私が強く書こうと決めている題材があったのだが、それが最近の新聞紙面に頻繁に出てくる。
優生保護法。
執筆のため、みみずくの初期会員の方々にインタビューを繰り返してきたのだが、必ずといっていいほど断種の話が出てくる。障害者を人として認めない人権無視の政策。
障害者の悔しすぎる泣き寝入り。
私は最初、耳を疑った。
「本当にそんなことが許されていたのですか」と。
インタビューを重ねるうち、私は当時の青春群像を再現したいという想いとは別種のモチベーションが強烈に混ざってきた。
ことはプライバシーに触れる部分で、戯曲としての描き方には細心の注意を払う必要があるが、この点に関しては、もう沸々と私自身が怒りを感じる。
押さえても押さえても怒りが出てくる。
私は元来、臆病で平和的な男だと思っていたが、実はそうではないかもしれない。
この怒りと、当時の若者たちの怒りが私の中では勝手にリンクする。
今を生きる私と、50年前のYさんたちの怒りが同調する。
きっと間違いなく同調している。
Yさんやみみずくへのオマージュで執筆を開始した初動。
しかし、
当時の方のお話しを伺ううちに、現在進行形の感情が渦巻き始めた。
偏狭な人間意識への怒りだ。
このような想いで戯曲を書くのは初めてだ。
【追記:この作品はその後「火群(ほむら)の時代」というタイトルで脱稿し、未上演ではありますが第45回部落解放文学賞で入選作となりました。後のブログ記事「2019年戯曲賞①」に詳細を書いています。】