常々申しております通り、

パソコン分野には全くもって疎い私です。

しかし、ここ数年、例外としてたった一つのソフトだけは使いこなしております。

 

映像編集ソフト✨

CyberLink社のPowerDirector。

これにどっぷりとハマりました。

 

そもそものキッカケは現在活動中の劇団がらみです。

 

結成20年。

振り返れば、今日まで随分と長く続けてきた活動。

しかも、

本番の舞台映像は、ほぼ全て動画撮影をされておるのです。

販売された作品も数作あります。

在庫がゼロとなる度に増産を続けているDVDもあるのです。

それ以外、例えば試演会にしても、どなたかに撮影して頂いております。

つまり過去の舞台上演の映像がほぼ全て記録として残っているのです。

プロのカメラマンさんの3台のカメラによる撮影と編集をしてくださった立派な作品群もあります。

 

ある時、私は、それらをまとめたくなりました。

数珠繋ぎでもいいから映像による通年史を創ってみたくなったのです。

 

記録映像制作の企画を劇団に持ちかけたところ、言い出しっぺの私が編集の担当となりました。

「そんなにやりたけりゃ、君がやりなさい」と。

 

私達の劇団は、耳が聞こえないろう者と、聴者が共に芝居を創っています。また、ご来場くださるお客様も然りです。ろう者聴者がおられる。

これはつまり、一般の劇団には無い上演上の工夫をすることを意味するのです。

 

私達の舞台は、「手話」と「声」という異なる言語が舞台上で交錯しており、手話を全く理解しない登場人物が出てきたりもしますので、それを如何に不自然ではない形で物語を進行させるか、とか、如何に観客へ伝えるか、とかが毎回の課題となります。

上演方法はその都度、試行錯誤の繰り返しでした。

「どんな内容の舞台を創るのか」と並行して「どのような方法で観客へ伝えるのか」を考え続けた20年間とも言えるでしょう。

この二点は切り離して考えられるものでもなく、「内容」と「方法」は作品ごとに複雑に絡み合っていました。

 

さて、

私が提案した劇団通年史。

最初は舞台映像を細切れに繋いで簡単に編集しようかと気楽に企てたわけですが、過去の上演映像を繰り返し観ていると、どうも上記したような、どこの劇団にもない上演に向けたハードルと、それを乗り越えてきた?ユニークな歴史こそが私たちの真骨頂だと改めて気づいたのです。

これまでも、旗揚げから5年目と10年目にそれぞれ記念誌を自費出版したのですが、いくら写真頁を創っても書籍ではどうにも通じにく部分があります。

戯曲をそのまま載せたところで、それが、どのように舞台化されたのかがわかりにくい。

動く役者や手話セリフを視覚的に観てもらってこそ理解してもらえる要素が沢山あるのです。

だったら、これらの手法を映像としてまとめるべきではないか……。

 

「20年の演劇活動の記録を残す」にあたって私が書いた構成台本は、これまでの「様々な上演方法」を詳らかにしつつ、各作品の「内容」を時系列に紹介するという実に複雑なものとなったのです。

 

映像の構成台本を書くのは初めてでした。

しかも、パソコン力に弱い私です。

映像編集って、ハードル高そうじゃありませんか。

プロが編集したテレビ動画は誰だって観てますし、みんな、目が肥えてますもんね。

こんなことが、はたして編集初心者の私にできるのでしょうか……。

 

しかしです、

私たちのやってきた試行錯誤の舞台表現が映像として残っていて、素材自体が面白い。

本当に面白いんです。

編集技術はさておいても、舞台表現の手法自体はきっと人を惹きつけるだろう。

ここに当時の活動を振り返る団員の回顧録を織り交ぜ、或いはまた日頃お世話になっているプロ中のプロの舞台裏方さんのインタビューも組み込めば、これはかなりユニークな演劇映像史ができるのでは……。

 

 

 

そこで前述のCyberLink社製のPowerDirectorです。

ソフト購入から1年間をかけ、ひたすら編集の技術を磨き、「あーでもない。こーでもない」と、やっと先年、約1時間の劇団映像史を完成させることができました。

『劇団あしたの会 20年のKISEKI(軌跡)』というタイトルを付けました。

いずれ、何らかの形で多くの人に観てもらえればと思っています。

エネルギー、めちゃ注ぎました。

 

 

 

さて、それから数年が過ぎた今年、

 

ここからが本題です。

相変わらずの長い前振り、ごめんなさい。

 

 

 

私が学生だった頃……と言いますから、今を遡ること35年前。

35年前ですよ。

私を演劇の世界に“引きずり込んだ方”がおられます。

人生を大きく変えるキッカケを作ってくださった方であります。

イニシャルだけですみません。

Yさん、です。

 

ブログタイトルの【演劇集団“瞬”(とき)】は当時、Yさんが所属されていた劇団の名前でありました。

 

私が大学二回生の時、このYさんと出会ったのであります。

誘われるままに彼の所属する瞬(とき)へ入部したのであります。

当時、京都ではまだ『静かな演劇』が生まれる前のお話しです。

丁度、つかこうへい氏の「蒲田行進曲」が深作欣二監督によって映画化された頃。

野田秀樹氏の「夢の遊眠社」が話題となり、北村想氏の作品を学生劇団がこぞって上演していた頃。

時代はまさにバブル。

大学内で演劇をすることがファッションですらあった、今では考えられない時代に私はYさんと出会ったのであります。

 

そして、そんなに深く考えずに、

「1年くらいは本気で演劇、やってみようか」、「就職活動を始めるまでの思い出作りになるだろう」と、腰かけ程度の軽い気持ちで入団を決めたのです。

 

それから今日まで35年間、寝食を忘れて芝居の世界に没頭するなどとは、この時は思いもよらずに……。

 

で、

それから35年後の、この冬のこと。

今から、ちょっと前。

私を演劇の世界へ“引きずり込んだ”Yさんが、この度、再婚されたのです。

しかも、

お相手は、私もよく知る女性Tさんでした。

 

Tさんとの出会いは、

そもそも私が“瞬”に入団する以前のことになります。

35年前よりも、更に時間を遡るのですが。

私にとって演劇は全く縁の無かった世界でした。

正確には美内すずえさんの漫画「ガラスの仮面」だけは読んでいた頃。

大学一回生。

サークルには入らずに、アルバイトばかりをしていた頃。

 

とある縁がキッカケで高校演劇部の卒業合同公演が京都会館の別館であり、その音響担当を私が引き受けることになったのです。

これが私が演劇に携わった最初の一歩でした。

当時私はオーディオオタクで、色んな音を録音してはミキサーを使って編集して作品を創ったりするのが趣味でした。

そういう作品コンテストが、SonyやVictorで募集されていた時期でもありました。

高校生の演劇部員の中に、音響を好んで担当するような人が、たまたまいなかったのでしょう。

ツテのツテを頼って、私に声が掛かったのです。

「何だか良くわからないけれど、お芝居の最中にバックグラウンドミュージックを流せばいいんでしょ」てな具合です。

公演は無事終了し、卒業生たち数人が新たに劇団を旗揚げすることになりました。

その中にまだうら若きTさんがおられたのです。

Tさんが参加した誕生したばかりの劇団。ヨチヨチ歩きの集団を影のように支え見守っていた人こそが、瞬に所属されていたYさんでした。Yさんは高校演劇の先輩でもあったのです。

 

このブログを書いていて本当に思います。

随分と古い話だなぁと。

本当に古い。

もうセピア色の世界です。

海老茶色の景色です。

 

Yさんは“瞬”に入部した私の良き先輩であり、その後、瞬が解散するまでの10年間、共に芝居を創った同志でもありました。

しかし、その後Yさんは就職、結婚をされ子育てにも忙しくなり、劇団に顔を出される機会も日に日に少なくなっていきました。

あれやこれやの理由があり、やがて“瞬”は自然消滅に近い形で解散となりました。

一時は、あの頃の京都の人気劇団「そとばこまち」と肩を並べるくらいに大所帯の団員数を誇る“瞬”であったのに。

最盛期、40人を超えた団員数。

稽古場兼の事務所も設けたのに。

それが一人欠け、二人欠け、蜘蛛の子を散らすとでも言いましょうか……劇団事務所に残ったのは、悲しいかな私一人でした。

 

Yさんは、その後も演劇と関わることなく約20年を過ごされました。

一方のTさんは短大を卒業された後、保母さんとなり、結婚出産もあって演劇の活動から遠のかれました。

何だか寂しい流れではあります。

 

ところが、数年前、ある劇団のお手伝いを共にされたことがキッカケでYさんとTさんは再会します。

ほどなく二人はその劇団の団員となり、意気投合というのでしょうか、阿吽の呼吸とでもいうのでしょうか、バツイチ同士のお二人は演劇が縁となり、晴れてこの度、目出度くご結婚という運びになったのです。

 

私はこれまで、演劇の世界から去っていった人を何人も、何十人も、何百人も見送ってきました。

本当に辛い歳月でした。

しかし、こうやって共に演劇に復帰されたお二人の姿を観ると、実に感無量であります。

そして、そのお二人が結婚をされる。

嬉しくって仕方がありません。

「わーい。わーい」です。

 

そうだ。

私にできる結婚祝いは何だろうか。

何かをしたい。

お二人の演劇経歴を知っている私にできること……何だろう……。

 

結婚式……結婚披露宴……結婚披露宴二次会……。

 

思い返せば、これまで私は、友達や会社の同僚、従妹や実弟や実妹の結婚式披露宴。ギター抱えて歌を歌い続けてきました。

もう何十回歌ったか、数え切れません。

40回くらいかな……50回超えてるかも……。

亡くなった母が日頃ため息交じりに申しておりました。

「人のためばかり歌って、あんたは自分のこと、どうするんや……」。

それぐらい、歌い続けた日々でした。

長崎、石川、名古屋……日本中、行きました。

ギターを抱えた渡り鳥。

「乾杯」とか「秋桜」とか「糸」とか。

定番ソングは言うに及ばず、オリジナルソングだって歌わせてもらったっけ、です。

 

しかし、今回。

間もなく還暦を迎えるYさんに対して、

♪乾杯、今君は人生の大きな大きな舞台に立ち……などとスタートラインを讃歌するような言葉を添えることは如何なものだろう……。

何か、

私にしかできない贈り物を。

それは何だろう。

 

そこで思いついたのが、映像編集でした。

劇団あしたの会の映像史制作で培った技術を、今回、最大限に発揮しよう。

 

Yさんの舞台映像、私はかなり所蔵していましたから。

だって同じ劇団員だったんだもん。

当時……。

35年前。

ようやく家庭用ビデオが普及し始め、業界ではベータ―かVHSか、録画企画の大戦争が起こっていた頃。

高額ではあったかと思うのですが、素人でもハンディカメラを持つ人も街中に次第に現れ始めました。

 

私が演劇集団“瞬”に入団した頃、団員の知人にお願いされていたのか、舞台映像は、かなり撮影されていました。

あの頃は、自分の芝居を直視できなくって、そんなに再生した記憶はありません。

VHSのビデオテープにダビングされたアナログ媒体は、ずっと私の本棚に眠り続けておりました。

その後確認したのですが、これらの映像記録は、Yさんの手元には無かったようです。

今に比べれば画質は相当に粗い。しかもアナログ撮影。磁気で録画しているために劣化も著しい。

しかし、それ以前の時代であれば、映像なんてよっぽどのプロでしか残せなかった。

思えば、あの頃が家庭用映像機器の黎明期であったのです。

映像が有ると無いとの差は大きい。

 

よし。

35年前のVHS舞台映像をDVDにダビングして、それを更に編集して、演劇集団“瞬”の歴史を回顧すれば、きっとYさんは喜んでくれるだろう。

Tさんにしても若かりし頃のYさんが映っている映像を観るのは興味深いに違いない。

だって二人とも私の演劇の先輩であり、そして数年前から再びこの世界に復帰された現役舞台人なのだから。

 

「結婚祝いには昔の舞台映像を編集したものを贈ろう」✨

やる気は充満しました。

 

が、

編集のため、いざ昔の映像を観ると、私自身が見入ってしまうんです。

“瞬”の舞台映像に。

釘付けでした。

 

何故って、

それは……、

だって20歳そこそこの私も映っているのだから。

私の青春も、そこにシッカリと刻まれているのだから。

久し振りに観た、自分。

 

 

 

私が“瞬”で最初に舞台を踏んだ作品。

登場人物が30人を超えるミュージカル。

私はエキストラに近い役回り。

この本番の日の朝、同居していた祖父が他界しました。長い闘病生活の末の老衰でした。

本来であれば、その日の夜が通夜で、翌日がお葬式となります。が、日柄が友引だったので、葬儀の段取りを一日後ろへずらすことになり、私は夜の本番公演と翌日昼の公演に出演することができたのです。役に穴をあけずに済みました。

楽日の昼公演を終えるや、そのまま急いで帰宅。

初舞台を祝って友人が私にバラの花束を贈ってくれたのですが、それをそのままお通夜の準備で忙しい自宅に持ち帰ったところ、両親から烈火のごとく怒られました。

そのことを、初舞台映像を観て思い出したのです。

35年前の記憶を突然に。

舞台映像は、そういう付随する感情も蘇らせます。

 

初めて主役をさせてもらった作品。

“人影のない部屋から夜明けの空を眺める”という設定があったので、夜の大学キャンパス。4階にある講義室に忍び込み、徹夜で夜明けを待った役作り。深夜3時ごろ、机の下に隠れた私に巡視の警備員が懐中電灯で近づいてきた時は、ドキドキしたよなぁ。

漸く迎えた、あさまだき。

窓から見える白んだ空は綺麗でした。

ちょうど私の役が食事制限をする設定でもあったので、自宅では2か月くらいは夕食の料をかなり減らし、母親からは「体を壊してまで芝居をするんやったら、やめたらええんや」と嘆かれた日々。

 

本来であれば就職活動をせねばならぬ時期。新劇の大作「アンネの日記」に演目が決まり、台本をひたすら読み込んだ日々。

本番後の打ち上げでは参加者がみんな感涙。

宴会場では一人一人のスピーチタイムをキスでつなぐという盛り上がり。

まさにドンチャン騒ぎ。

大学の友人たちが次々と就職の内定を勝ち取っていた時期。

私は、親の心配をよそに演劇街道をその後も驀進するのです。

 

TBSのアナウンサーとして活躍することになる長峰由紀嬢が学生の頃、“瞬”に入団し、共に舞台に立った作品もありました。

同じ大学の後輩でもあった長峰さん。

中学、高校とクラブ活動とは無縁だった私に、後にも先にも「先輩」と呼んでくれたのは彼女だけだったよなぁ。

 

団員もみな社会人となり、稽古時間の調整がなかなかつかず、深夜の1時から朝方の5時くらいまで稽古をした作品。

京都大学のキャンパス。草木も眠る丑三つ時。

隣の教室では松田正隆氏の時空劇場が、二階ではマキノノゾミ氏のM・O・Pが、教室の外ではキタモトマサヤ氏の遊劇体が、稽古に精を出していたあの頃。

 

あの頃は、なんだか無茶苦茶だった。

 

まさに「青春」だったのかなぁ。

突き進んでは崩れたり倒れたり、それでも結局止めることをしなかった。

血圧も跳ね上がったし、酒量も増えた。

熱かった時代。

 

私は過去の“瞬”の映像を眺めながら、あの頃の自分にはあって、今は無いものを感じていました。

 

そうして夢中で編集を続けました。

当時の映像をダイジェストでつなぎ、当日配布したパンフレットに載っていた劇団代表者のコメントなどを字幕で挿入し、約1時間の映像作品に、やっとこさ仕上げることができたのです。

 

きっとYさんにとっても熱い青春だったはずです。

贈呈した後、Tさんから届いたメールによると、Yさんは映像DVDを何度も観て下さっているようです。

 

次回のYさんやTさんの舞台はどんな作品なのでしょう。

次回の私の作品は、どのようなものとなるでしょう。

 

いつか先、懐かしく思えて、しかも年老いた私を奮い立たせてくれる作品になればと、

若い頃の自分自身に喝をいれてもらった私は、今の行いに覚悟するわけであります。