今月の15日、京都府立文化芸術会館にて自劇団である「あしたの会」が久し振りの京都公演を行いました。

「歩きはじめる時」

 第41回Kyoto演劇フェスティバル参加作品。

 私は台本と演出を担当させて頂きました。

 副題は「昭和38年 日本で最初の手話サークル誕生物語」

 

 今から57年前、筆者がこの世に生まれて一年を過ぎた頃のお話しです。

 場所は京都。

 副題にあるように当時の日本にはまだたったの一つの手話サークルもなく……という以前に、手話言語自体を殆ど誰も見たことがなく、従って「手話」という言葉さえ一般には認知されておらず、かろうじて見聞きしたことがある人でさえが、“聾唖者”が使っているのは「手真似」だとか「身振り」だとかの呼称にあるように言語としては受け止めておらず、つまりは、手話は蔑視の対象でしかなかった頃のお話しです。

 当時の“聾唖者”自身が、人前で手話をするのを恥ずかしがった時代でもありました。

 このお芝居は、京都のとある病院に、ろう者の患者さんが胃潰瘍で入院され、その担当の一人となった看護学生さんが手話の大切さに気付いて手話サークルを立ち上げるまでの物語を、実在の人物をモデルとしながらも、ほぼフィクションで書き上げた筆者のオリジナル作品です。

 主人公となる女性は、熊本から集団就職で京都の夜間高校に通いつつ、昼間は病院で研修を積んでおられた看護学生さんです。これは実話。

 一方の患者さんは、まだ全国では珍しい、ろう者の聾学校教師でした。彼の実家は町医者で、本人も医師になることを目指して医大の入試にも合格されたものの、丁度その時期に中途失聴となり、志を断念し、大学入学は諦め、紆余曲折の末、京都の聾学校の教師となった方でした。これも実話。

 二人の病室での出会いが、今日では全国に隆盛を誇るあまたの手話サークルの先駆けとなったのです。これも実話。

 芝居の内容としては、看護学生さんが、入院患者さんや、見舞いに来たろう者と出会う中で、当時ろう者が置かれていた現状を少しずつ知っていき、“より良い看護を目指すためには手話を学ばなければ”と決意するまでの意識の変化を追ったものです。

 実際の病室での交流を細かく書き残した資料は無く、実在したお二人に具体的に当時の様子を伺った親族やお知り合いもないため、芝居のほとんど、病室での会話は全てが私の想像の世界です。

 この作品は、もともと昨年の鳥取県で開催された第6回手話パフォーマンス甲子園に、あしたの会をゲストパフォーマーとして招聘されたことで急遽書き下ろしたものでした。

 

  鳥取公演の話が出るまでは、劇団ではこの芝居「歩きはじめる時」の予定は全くありませんでした。そもそも台本すら書いていませんでした。

 昨年の春先、劇団あしたの会では翌年2月(つまり今年の2月)に開催される第41回Kyoto演劇フェスティバルに参加するべく、全く別の作品の稽古を始めていたのです。フェスティバルの規定となる上演時間は1時間。その1時間をフルに使って、殺陣を駆使したファンタジー作品の上演を目指し、私は台本の数ページ分を書いた段階でした。そして団内でも既に読み合わせを開始しておったのです。

 ところが、そんなある日。

 劇団員の一人から、

「『全国高校生・第6回手話パフォーマンス甲子園』への参加を主催者側から呼びかけられたので、参加すべきかどうか団内で是非とも相談して欲しい」

と提案がありました。

 で、詳しく聞きますと、

 「手話パフォーマンス甲子園」なる催しは、今回が6回目で、全国の普通校やろう学校高等部生を対象に、持ち時間8分を限度にして、芝居でもダンスでもジャンルは問わないから、とにかく手話で舞台芸術を表現するコンクール形式の大会だと言うのです。しかも誰もが本番の舞台に立てるわけでもなく、全国から応募された出し物を、ビデオ審査で勝ち抜いた学校だけが出場できるという狭き門らしいのです。私はそうしたことへの勉強不足もあって、「へえ、そんな催しがあるんだ……」程度の認識でした。ところが既に劇団員の多くは異様に盛り上がっていて、“これはもう何が何でも参加すべきだ”という圧を受けたのも確かでした。

 更に聞けば、昨年は秋篠宮佳子内親王が開会の挨拶(プログラムには“おことば”と表記)をされたそうで、鳥取県をあげての目玉行事でもあり、知事や県会議員さんも鑑賞、高校生たちのパフォーマンスのレベルも非常に高いらしく、観客も2000人規模で、「そこにゲストとして呼ばれることは、言ってみれば非常に“名誉”なことなんだ」という、そういう空気が、団内で相談中ずっと充満しておったのです。

 それだけの熱を感じても、私には「皆が参加したい気持ちが強そうだし、個人的には依頼を引き受ける方向でいいんじゃないですか」みたいな軽いノリのままでした。「鳥取は友人の結婚式で行っただけなので、芝居を持っていけるのなら、久々に訪れるのもいいかな」ぐらいの、本当に軽いノリで。

 しかし、引き受けるにしても、では一体何を上演するのか。一抹の不安はありました。

 そんなに簡単に引き受けるわけにもいかんだろうと。

 相談時間の途中、主催者に電話で確認をとったところ、上演時間は25分厳守。

 その程度の枠であれば、何となく間に合いそうだという甘い見通しもありました。この時点でもまだまだ個人的にはお気楽モード。

 まあ、本番はまだ4カ月くらい先だから、なんとかなるだろう。

 あしたの会の持ちネタで既にある啓発芝居ならば、その25分尺に合う作品もあるから、それを練り直していけば大丈夫かもしれないと……。

 しかし、「ちょっと前年までの出し物を調べてみるか」と甲子園に関するいろんな情報を得るにつれ、どうもそういう軽いノリでは通用しないような感じがしてきたのです。

 と言うか、

 調べてみてわかったのです。

 私が甘かった。

 実に甘かった。

 高校生たちは皆、相当に稽古を積み重ねているということが……昨年までの各校のパフォーマンスがYouTubeにあがっているのですが、これを観た時点で、私はその完成度におののき、突然に焦りだしたのです。

 やばい。

 高校生、凄い。

 技術、熱量、半端ない。

 うちらの持ちネタでお茶を濁そうなど、できようはずもない。

 (※啓発芝居の持ちネタをいい加減に創ってきたという意味ではありません。ただ、しかし、やはり啓発芝居の域を出ておらず、観衆を心の底から揺さぶるという作品ではなかったわけで……)

 これはもう、あしたの会の芝居創りを象徴するような、本気度マックスの新作舞台作品で勝負?するしかないんじゃないか。

 でないと、私ら恥をかくかもしれない。

 ことここに至って汗の出ること出ること。

 しかし、しかし……だから何をやればいいんだ?……。

 参加意思の表明を1週間後には伝えなければならない。

 時間はない。

 でも、逃げるわけにはいかん。主催者も、すでに十分あてにされているようだし。

 その日から一週間後の稽古日に、団員全員がプロットでもいいから、何をやりたいか、何をやるべきかを持ち寄って、その中から最適なものを出し物とすることにしよう。そして主催者へ正式に参加することを告げようと。

 

 誰のプランを舞台化するかはまだ決まっていませんでしたが、劇団内では、私は一応座付き作家の一人という立場でもあるので、ノープランでは話にならないわけです。

 何か題材を。

 最初に思ったのは、高校生に観てもらうからには、彼らと等身大の物語をやりたいということ。これはつまり、主役となる登場人物の年齢を彼ら彼女ら高校生とほぼ近い設定にするということ。おじさんおばさんを主役にしても、中高年の葛藤では響きにくいだろう……しかし具体的には、そんなアイデアは……簡単には……。

簡単には……。 

 

 思いついた。

 次の日には思いついたぞ。

 世を忍ぶ仮の仕事である植木屋で、木に登っている最中に、突如思いついたぞ。

 それはまさに天の啓示。

 直近作の「火群の時代」、私は日本初の手話サークルみみずく黎明期の試行錯誤の物語を書き上げたばかりではないか。そうだ。この「火群の時代」をエピソード1とするならば、その前段となるエピソード0を書いてはどうだろうか。

 つまり、

 “手話学習会みみずく”を立ち上げる、そもそも初っ端のキッカケを物語にすれば。

 

 京都の病院に勤めていた看護学生さんは、確か当時で年齢が20歳か21歳。彼女は夜間高校に通いながらの勤労学生さんだった。これならば、手話を学んでいる全国の高校生たちの心にも響く作品になるかもしれない。しかも、私は「火群の時代」を執筆するにあたって、相当なインタビューをしたわけで、文献も読み込んでいたから、ゼロからの下調べをする必要もそんなにはないだろう。

 しかも25分の作品であるから、劇構造としては起承転結のセオリーをそのまま基本に持ち込めば、締め切りまでに書き上げられそうな気がする。

 

 それからはダッシュで執筆。

 仕事の昼休みも執筆。

 書いて書いて書きまくる。

 次の劇団稽古日である1週間後、全体の8割くらいを書き上げて、出来立てホヤホヤの作品を読み合わせたところ、「この作品をやろう!」と団員満場一致で、ほぼ即決。

 かくして手話パフォーマンス甲子園への参加意向をその場で連絡し、その後、主催者による協議の末の承認を得て、劇団として久し振りの新作に向けて動き出したわけです。

 

 間に合って良かった。

 

 ところがここに大きな問題が一つ。

 あしたの会には主役を演じられる20歳前後の若い団員はおらず……芝居だから五十路の女性でも遠目には化けられるだろうというのは到底無理な話で、だって鳥取の大会では手話表現が後方の席のお客様にもハッキリ見えるようにと、超大型のハイビジョン液晶モニターが舞台上に吊るされていて、メークで20代に化けるという演劇的な小細工は効くわけもなく、しかも私らが芝居を上演するまで、さんざんホンマもんの正真正銘の高校生さんたちが若さと躍動感溢れるパフォーマンスを繰り広げたあとであるから、いくら五十路女優がセリフで「私は20歳!」と表したところで、どだい無理っていうか、バレバレっていうか、痛々しい印象しか与えない結果は見えていそうで……ここ、あんまり言うと女性団員から吊し上げを食らいそうなので、これ以上言いませんけど……とにかく他力本願、客演に頼るしかないのは確かで、まだ見ぬ団外の、未知の方に頼むしかないと腹をくくったのでした。

 

 そこで私は、各大学の学生演劇を観て回ることにしたのです。

 主役……主役……主役はどこぞにおらんか?

 若い子、若い子……若い子と言えば、そうだ、学生劇団だ。

 ちょうどその時期、学内ではどこも新入生歓迎公演の花盛り。自分たちの公演を新入生に観てもらって団員を増やそうという意味もあって、各大学の劇団がここ1カ月、しのぎを削っていた時期でした。そこに私どもへ客演してくれる人を、大学とは全くの部外者がスカウトしに行くのだから、心根は不届き千万と言われてもしかたない。目的は物色。言ってみればヘッドハンティング。

 それで4劇団くらい観たでしょうか……大学の4回生だとこれが最後の公演になるのでしょう。みんな熱い芝居をしているわけです。しかも、自劇団愛に溢れている感じがして。公演後カーテンコールの表情に万感の思いも込められていて。

 それなのに終演後の部室などに57歳の胡散臭そうなオヤジがノコノコとお邪魔をして、唐突に「実は、うちの芝居に出てもらえませんか?」なんて、どの口で言うねん。

 言えんわい。

 各学生劇団の2回生や3回生は、次の自分たちの公演のことをきっと考えているだろうし。

 そもそも、私は何様でしょうか。

 学生劇団の輪を壊すつもりか。

 この不埒もの。

 

 やめよう。客演依頼はやめよう。

 

 では、どうする? 

 お手上げか……。

 と悩んでいたところへ、団員から吉報が。

 手話サークルみみずく某支部に通われている方の娘さんが、客演として参加してくれるかもしれないと。プロの声優を目指しているこの方は、なんでも東京へ行くまでの暫くの間、猶予があるという。何より、娘さんのお母さんのほうが、あしたの会を手伝うことに乗り気で、就職前の娘さんの親御さんを説得するという難儀な手続きもいらないという。

 良かった。これで救われた。もう、何がなんでもこの方に主役をやってもらおう。お母さんともども、参加して頂こう。

 

 しかし時間はない。

 とにかくこの母娘さんに劇団稽古場へ一度顔を出してもらうしかない。それからほどなくして、声優志望の女性とお母さんのお二人が本読みに来てくださって、その場で、出演オッケーということになって、最大の問題はクリアーできたのです。

 

 ホッとしたのも束の間、脚本上の問題が一つ浮上。

 冒頭のシーンで看護学生さんとろうの患者さんが会話をするのですが、ここを筆談や口話で乗り切ろうとする作者の私に、団員から疑問の声が。

 「芝居の最初のシーン。声や筆談だけのやりとりでは、観客、特にろう学校の学生さんたちの気持ちが離れていくのではないだろうか。手話パフォーマンス甲子園であるのに、冒頭から全く手話がなく字幕を見続けるっていうのは如何なものか。大会の趣旨にも反するだろう」と。

 ご指摘、確かにその通りなんです。

 しかし設定は昭和38年。手話が全く認知されていない状況なのに、幕開きのシーンから手話での台詞がバンバン飛び交うってのも……。

 

 どうしたものか……。

 

 考えに考えて思いついた秘策。

 手話という言語自体を擬人化して、役として登場させてはどうか。

 舞台上の他の役者には誰にも見えない透明人間のような存在として、手話という人物?を登場させ、音声言語で会話されている内容を逐一手話化していく存在。だって当時は手話に対する認識が世の中に無いのだから、誰からも見えないという整合性はあるんじゃないか。

 観客だけには見えているという存在。

 人間ではなく、手話そのものという存在。

 擬人化された手話という言語に自意識があって、ろう者の役者が筆談なり口話なりで聴者に向かって自己表現をしている時などに必ず傍に現れて、手話で同じ内容を相手役へ伝えようとする役。

 手話の魂のような役。手話の妖精のような役。

 この案を提案したところ、団内では「???」の反応。「ま、稽古で試してみたら」と受けはイマイチよくありません。しかし、私は、これ必ず演劇的効果を発揮し面白い存在となるはずと、手前味噌ではありますが「ナイスアイデア!」と密かに得心しておったのです。

 

 で、最後の関門。

 台本第一稿を書き上げた時点で、それでもあと三人、役者が足りない。

 一人はろうの若い女性。あと二人は、年齢は調整できそうな男優が二人。

 ここも、これまであしたの会で客演などでお付き合いのあった方に電話で打診などをして、みなさん快諾してくださり、晴れて役者的には全員が揃ったわけです。

 配役でいうと自劇団員から3名、客演が4名という状態でのスタート。

 何ともアンバランス。

 でも、いい。

 逆にスタッフは舞台監督や字幕班や制作は自劇団で固めてしまって、裏方は盤石の体制で挑もうというのが当初からの暗黙の合意事項だったから。

 しかも照明は、前回公演の啓発芝居からお付き合い頂いているプロの照明さんがプランとオペで参戦してくれることに。彼女が参加してくれたら100人力。とにかく押しが強い。会場がどこであろうと、会館スタッフにすぐに溶け込み、あしたの会が要望することを実現してくれるスーパーウーマン。(結果的に、鳥取公演だけでなく翌年の演劇フェスティバルにおいても彼女の力はいかんなく発揮されるわけで……)

 

 最後に残った課題は、

 肝心の演出だけがなかなか決まらずで……。

 消去法の流れというか、団内の雰囲気もあって私が演出を引き受けることになったのです。

 「もうこうなったら何でもやってやろうじゃないか」みたいな。

 しかし、いざ稽古の蓋を開けると、演出に不慣れな私はついつい作者としての思惑だけを語り続け、稽古場の退館時間の制約もあって役者さんとのコミュニケーションもあまりとらず、役者さんにはフラストレーションがたまっていくばかりで……何だか稽古場が怪しい空気に……。

 「演出が喋りすぎ。それよりも稽古をさせてくれ」みたいな。

 タイトルも当初に私が命名した『はじまりの詩』だと、手話では表現しにくいとのことで、別タイトルを劇団内で公募することに……代案は参加者からいくつか提出されましたが、結局私が出した代替案の「歩きはじめる時」が僅差で採択されることになりました。

 色々と問題はあるものの稽古は何とか進みます。

 

 とそんな時、

 もともと劇団としては、翌年の演劇フェスティバルの参加を殺陣作品で目指しており、その名目で京都芸術センターの制作室使用を申請していたのですが、審査の結果、芸術センターから稽古場使用の許可が下りたとの通達が入ったのです。使用を希望される団体はかなりの数があって結構な倍率でしたが、あしたの会に許可が下りたと。あしたの会が選ばれたと。

 

 この“芸術センター”は、明治初期に建設された元小学校の建物を改装した立派な稽古場で、交通の便なども都心(四条烏丸)なため、すこぶる便利で、使用時間も夜の10時までと演劇関係者にとっては涙が出るくらい最適な環境なのです。劇団では、そもそも殺陣を軸にしたお芝居をやる前提で申請していたのですが、おそらく許可は下りないだろうと半ば諦めていました。その間に手話パフォーマンス甲子園の計画が入ってしまい、そちらに意識を集中していたせいもあって、申請していたことすら忘れていました。

 「そう言えば、芸術センターを稽古場として借りたいと申請を出していたっけ……」

 しかし許可が下りた……芸術センターで稽古ができる!

 ならば来年2月の演劇フェスティバルも出ようではないか!……とは、簡単にはいかず……、

 何故なら、

 鳥取での手話パフォーマンス甲子園の本番は9月29日。演劇フェスティバルが翌年の2月上旬。鳥取の本番が終了した後に、全くの別作品を一から稽古を開始して演劇フェスティバルでの上演に間に合わせるには時間は無さすぎる。当初の予定作品とするなら殺陣の練習も目茶苦茶大変なので簡単にできるはずもない……しかし折角芸術センターを借りられる許可がおりたのに……。

 では逆に演劇フェスティバルに参加しないと、どうなるか。

 必然的に稽古場である芸術センターへも断る必要がある。断れば、「不義理者」「あてにならない劇団」との烙印が押され、今後もう二度と稽古場として芸術センターを借りられないかもしれない……。

 

 よし。

 演劇フェスティバルにも参加することにしよう。

 出し物は変更だ。

 殺陣作品はやめにしよう。

 なら、どうする。

 ……そうだ。

 こうなったら、

 「歩きはじめる時」の鳥取25分バージョンを大幅改稿して1時間の内容にしょう。

 考える暇はない。

 後ろ向きな発想はやめだ。

 劇団としては来年2月の演フェス参加を決定すべし。

 とにかく決定するんだ。

 後のことは、後から考えよう。

 

 本当に大丈夫か……。

 

 今回鳥取に向けて参加してくれている主役の女性は来年2月には東京に移り、声優の事務所に入るという方向が決まっていて、鳥取公演終演までのお付き合い。と言うことは、翌年2月に向けて、また別な若い女優さんを探さねばならない。

 しかも、台本を25分から1時間へと、内容も書き足さねばならない。

 しかも、演出の私の経験不足から、何だか稽古場の空気が怪しい。こんな状況を続けていいのか。

 この先、来年2月までどうするつもりだ。

 走り切れるか。

 後のことは後から考えようと言ったって……。

 私は作&演出として、果たして一切の責任を持てるのか。

 

 それでもやっぱり全部が全部を、後から考えよう。

 だって迷っている時間はないのだから。

 演劇フェスティバルへのエントリーを表明する締め切りも目の前に近づいていたから。

 とにかく、今は鳥取公演のことだけを考えよう。

 とにかく、鳥取に向けた稽古を重ねよう。

 

 しかし芝居創りとはつくづく不思議なもので……、

 鳥取の本番を10日後に控えた辺りで、俄然役者さんが乗ってきたんです。

 どういう訳だか乗ってきたんです。

 特に主役をお願いした女優さんが、私が台本を書いていた時にイメージしていた看護学生さんそのものになってきたんです。

 「演出が喋り過ぎ」と多数の団員やこの女優さんから逆にダメ出しを受けながらも、それでもしつこく私が喋り続けた結果なのか。いや、そうではなく、演出など放っておいて、役者さん同士が稽古日以外で個別に練習を積み上げてきてくれたおかげなのか。

 とにかく結構いい感じになってきた。

 

 そうこうしている内に、いよいよ本番間近。

 ついにやってきた。手話パフォーマン甲子園大会。

 

 演出班が二日前に先行して鳥取入り。本番前日に役者班が合流。

 ホールを見ると、やはり広い。数カ月前に事前に下見はしていたものの、ステージも客席も、とてつもなくでかい。

 とりぎん文化会館、梨花ホール。客席1990席。車椅子席10席。舞台横幅52m。奥行23m。

 やはり圧倒されます。

 前日は朝から既に舞台上は戦闘モード。と言っても高校生たちのことではありません。裏方さんのこと。

 とにかく巨大液晶パネルを舞台上に吊り上げない限り、リハーサルもできない。この液晶パネルというのが凄い。完成すれば一枚ものとしての巨大なハイビジョンモニターとなるのだけれど、実際は50センチ四方くらいの液晶パネルを一枚づつ結線しながら、パネル自体を連結して組み立てていくのですが、この作業にやたらと時間が掛かる。横一列を組むのさえ手間が掛かっているのに、その列が終わると吊バトンを若干上昇させて、次の列をまた組み立てる。そして二列目が終わると、また上昇させて3列目を創るの繰り返し。この気の遠くなる作業の完成を待たないと、舞台上では何もできない。総合舞監さん大焦り。

 出場団体は15。北は北海道から南は沖縄まで、全国から選り抜かれた高校生たちが続々と会場入り。熱気だけは盛り上がるけれど、舞台では相変わらず巨大モニターの組み立て作業が続く。

 

 あしたの会のリハーサル時間帯は、その日の夜。高校生の皆さんがリハーサルを終えて、交流会のためにホールを抜けて別会場のホテルニューオオタニへ行っている間、劇団の稽古が出来るように主催者と調整して何とかリハの時間を確保。

 午後になってモニターも何とか完成し、それぞれ出場校がリハーサルを始めた。みんな熱い。

 私も客席後方で何校かのパフォーマンスを見学して胸が熱くなりました。

 この頃の高校生のダンスのレベルは相当に高い。

 私らが現役の時、つまりは30年前です。サタデーナイトフィーバーのジョントラボルタはあったけれども、フラッシュダンスもエアロビクスもまだ先の話。高校生にとってダンスと言えば、それはつまりフォークダンスのことでした。オクラホマミキサとかマイムマイムとか(正式な楽曲タイトルは知りません)、かなり照れながらのニキビ面の男子と女子の手つなぎ混合ダンス。ダンスという呼び名が正しいかも疑問。      

 しかし、きょうびの高校生は動きもキレッキレで同調表現も凄い。

 沖縄の高校生たちのラップを交えたパフォーマンスも圧巻でした。

 

 しかし私にはこの時間帯、高校生たちのリハに圧倒されながらも、心に期する任務がありました。

 それは明日の本番、我々の芝居上演中、その模様をモニターに映すべく画面を撮影してくださる3人のカメラマンさんに、リハーサル以前になるべく早く私たちの芝居の内容を伝えておくこと。会場は全部で3台のカメラが同時に舞台を撮影しているのですが、それをスイッチャーさんが適時切り替えるわけですが、私たちの内容は、まだカメラマンさんの誰にも伝わっていない。けれどリハーサルの時には予め一定のカメラアングルを決めておいて欲しいという私の願いがありました。なぜなら、観客は2000人。その人達に伝わるのは生身の舞台上の小さな役者ではなく、どちらかというとモニターに映っているリアルタイムの役者の姿。このモニター画面こそが命。だとしたら、変なカット割りで映像を撮られ日にゃあ、芝居で表現したいことが薄まってしまうってもの。こちらとしては、どうしてもこのシーンのこの役者の表情は捉えていて欲しいとかの想いはあるわけで。何とかそこをカメラマンさんに伝えたい。高校生たちのリハーサルの邪魔にならないように、何とか事を進めなくては。

 見渡すと3人の中で、これはあきらかにリーダーだと思える故筑紫哲也ばりのロマンスグレーの紳士風カメラマンが。高校生のリハーサルが休憩時間に入った時、私はおもむろにロマンスに忍び寄り、「あの、ゲストパフォーマーで参加しています劇団あしたの会と申します。実はかなりカメラアングルが難しい芝居をやっています。内容を簡単に言うと○○○○でして、それで、もし宜しければ、ここに台本がございます。私どものリハーサルまでに是非一読をお願いします。他のカメラマンさんにも宜しくお伝えください。なにとぞ。なにとぞ」と直訴。

 同じ旨を後方のスイッチャーさんにも直訴。

 あまり、しつこくまとわりつくのも何なので、私、客席に戻りますと、ロマンスさんは本来はカメラマンさんにとっても休憩時間だったのですが、席を離れることをされず、着席したまま台本を熟読されている御様子。よし。何とか、ベストアングルを探られている雰囲気だ。

 よし。

 

 そうして夜、あしたの会の舞台上でのリハーサル。

 「絶対に上演時間25分を厳守してください」と総合舞監さんからきつく言われたものの、2分ほど超過。時間的には本番への課題を残すものの、とりあえずホールの大きさは役者さんの身体に入ったようだし、私は客席から舞台をチェックしつつ、モニターに映るカメラ映像も見ていると、予めの直訴が効果をあげたのか、結構よい感じでカメラワークが進んでいます。

 よし。

 リハーサル無事終了。

 

 そして迎えた本番当日。駅前のホテルからホールへと到着。

 予想以上に物々しい感じが。

 そう言えば前日リハの時に言われたのです。「長傘の持ち込みは禁止です」と。

 警備はかなり厳しそうだ。

 そして実際、

 入り口付近には刑事やらSPやらが多数。これはやはり皇族の警護のためか。

 秋篠宮佳子内親王が観覧されるということで、現場は相当にピリピリした状況に。私たちの入館時間もハッキリ何時までにと決まっていて、その時は必ずスタッフである証明書は必要で、しかも入館後は簡単には外出はできず完全クローズ。やむを得ず外へ出入りする場合は手荷物検査や金属探知機による細心のチェックが行われるとのこと。

 そう言えば清掃員に扮装した警備員もいたような。

 SP、SP、SP。

 警護はホールの外だけに止まらず、建物内の楽屋廊下や各階段にも多数配置。あしたの会の専用楽屋の前の階段付近にもSPが。全員合わせると多分何十人も。いや、もっとかもしれませんけど。

 

 そしていよいよ大会が開始されました。

 私は一階客席に。

 鳥取県知事の挨拶に続いて佳子内親王が手話で話されたのですが、これが実にわかりやすくて綺麗な手話で、ちょっと感動したのです。

 そしてその後、客席に着席された後、ここから昼食時間を挟んで約5時間、高校生たちのパフォーマンスが続くのですが、その間、佳子内親王はずっと笑顔を絶やされずで……少なくとも私が遠目に見た限りにおいて、例えば、視線を舞台から大きく外すこともされず、当然あくびをされることもなく、ましてやうたた寝されることもなく、ひたすら姿勢を崩されることもなく……これは凄い。私なんか腕は組むは、腰の位置は変えるは、これから楽屋で最後の通し稽古だし何をやるべきかをうつ向いて考えるはで、とにかく落ち着きのないこと。

 凄いなぁ。だって5時間ずっとだから。

 

 そんな中、私たちは楽屋に戻って最終稽古を開始したのです。

 もう泣いても笑っても、これが最後の稽古。

 ところが、ここでまたひと悶着が。

 最終景で登場する役者さん。彼女は、劇団員ではありません。ろうの若い女性が団内にはいませんでしたので、以前に啓発劇で客演して頂いた女性に無理を言って参加してもらったのです。が、彼女の役が実は大変な役で、新婚で子どもを授かったところ、両親や一族から「堕ろせ」と迫られて、悩んでいるという設定でした。優性思想の犠牲になりかけている女性の役なのです。しかし、何せ演技経験に乏しい彼女は、なかなか役がつかめず、と言うよりも、役作りの仕方そのものがわからない感じだったのです。私も演出の立場ではありましたが、どのように導けば良いのか、それまでの稽古中は途方に暮れる感じで……「あなたの中にある悲しみや苦しみを出して欲しい」、「これまでの人生の経験の中、悲しかった時の気持ちを思い出してください」と、いろいろと言葉を変えて伝えるのですが、彼女は「悲しいというのは、どんな表情をすればいいのですか」と尋ねてくるような感じで。或いはまた「笑顔をつくればいいのか泣き顔にすればいいのか、どっちなんですか。どんな顔をすればいいのですか」と問いかけてくるわけで……私としてはやはり演出経験も浅いので、「人には例えば楽しい100%、悲しい100%と感情がハッキリと区別できるようなものでもなく、様々混ざり合っていて一通りではないわけです。悲しみの中にも怒りもあるし悔しさもあるし……あなたは実際に怒るときに、怒る顔をまず考えてから怒るなんてことはしないでしょ。感情の結果が表情なんです。表情を決めてから感情をつかむなんてことはないわけですよね」「泣きたい気持ちを押さえて、無理に笑った経験ってありませんでしたか」とか言うのが限界で。

 きっとこの方はこれまでの稽古がしんどかっただろうと思うのです。多分自分が表現できていないことは実感されていたはずだし。

 本番当日の午前の楽屋での通し稽古。その前に、私は彼女に少しダメ出しをしました。「あなたが登場してくるときの両手の位置がちょっと違うので、もっと普段歩いているように両手を下げて、力を抜いて登場してもらえますか」と。感情とかは置いておいて、とにかく動きだけの指示を出したわけです。

 すると共演している他の数人の役者さんが、「そもそも悲しい時、苦しい時って、どんな気持ち? もっと落ち込んでいるはずだよね。そんな時にそんな歩き方をするだろうか」と、根本的な指摘を始めたのです。これまでの稽古期間中に演出も含めて、その点は既に彼女は、色んな人からさんざん言われ続けたことでした。それを本番の数時間前にも、また指摘されたわけです。

 彼女は突然、素に戻って「もうわからない!」と泣き叫んでしまいました。

 これは演出である私の責任です。

 しかし、この期に及んでどう説明していいか私もわからずで……劇団員の舞台監督が、「ここはちょっと休憩を入れて、10分後に最後の通し稽古を開始しましょう」と一拍置くことを提案してくれたので、それに従いました。

 まあ、本番前にこういうことってありがちで、私的には長く演劇をやってきた中で何度か遭遇したことがあります。耐えに耐えてきた感情が、本番前に爆発してしまう。

 彼女は、もともと責任感の強い女性なので、「本番に出るのはやめます!」とは決して言わないだろうし、それどころか私は不謹慎にも内心、「これで、この芝居は必ず成功する」と確信したくらいでした。

 10分後に開始した最後の通し稽古。終景で登場してくる彼女は、本当に今にも泣きだしそうな表情でした。これは作った表情ではない。本気の表情。これを私は待っていたのです。

 彼女は台詞の途中からついに泣き出してしまいました。「両親が私に言うんです。お腹のなかの子どもを堕ろせって! 私は子どもが生みたいんです!」の手話セリフ。彼女は泣きながら相手役に訴えている。「私は誰を信用すればいいんですか!」と。

 この土壇場の最後の稽古で、彼女はまさに本当の悲しみに中からの”叫び”をあげました。

 演出席から観ている私は、号泣を押さえるのに必死でした。

 

 私は、この台本を書く時に何度も反芻していました。

 本当にこのような内容を書いていいものだろうかと。

 昭和38年、沢山のろう者が苦しみの渦中にありました。強制不妊手術のことも、インタビューを通して沢山知りました。

 それを私のような者が、ろうの役者さんに向かって「悲しみや苦しみはそんなものではないでしょう」とか演出をしていいものかと。

 しかも、観客の中にはもしかしたら実際不妊手術を受けたろうの女性も来られるかもしれない。

 ここに私自身が覚悟を持って対峙できるのかと。

 この辺の心境は、過去のブログでも度々書いている通りです。

 しかし、

 対峙するしかないのです。

 戯曲を書き始めて20年近く経ちます。

 書いても書かなくてもどうでも良いような作品、当たり障りのない作品は、逆に私には書けないということがわかってきました。 今回もまた覚悟するしかないのです。

 私には、当事者としての苦しみ痛みはわからない。

 けれど想像力を全開にして、理解に努めるしかないのです。

 当事者や関係者にまっすぐに伝えるためには、遠慮したりぼかしたり弱気になったりすることが一番ダメなことだから。

 お客様の喜びも痛みも一身に受けるしか、ないのです。

 そうでないと戯曲なんか書けない。

 

 そうしてやっと迎えた本番。

 手話パフォーマンス甲子園。

 ゲストパフォーマー、劇団あしたの会。

 「歩きはじめる時」の初演を、私は1階客席最後列で観ていました。

 途中から、どのシーンがキッカケということもなく自然と涙が溢れました。

 

 【次回ブログへと続く……】