コロナウイルスの感染拡大を受けて、昨晩、安倍総理大臣が緊急事態宣言を発令した。
会見では様々な要請が出されたが、要は日本国民全員に、これまで以上に家から出ることを極力自制して欲しいということだろう。「できるだけ家にいてくれ」ということだ。
私自身、今現在は仕事に行っていない。
だが今のところ、コロナとは全く関係のない理由で、仕事に行っていない。
ずっと机に向かって新作台本を書いている。
元々私は非正規であって閑散期であるこの時期の2~3ヵ月は、毎年おおむね戯曲を書くことに費やし、本来の仕事はしていない。
本来の仕事というのは何かと言うと、戯曲執筆ではそうそうお金にならないので、稼ぐためにやっている仕事のこと。そこでギリギリの生活費を得て、毎年自転車操業のようにして戯曲を書いてきた。
職場では閑散期であるから、私の意志とは関係なく仕事がないこともあって、アルバイトの私が仮に出社したくても断られるという状況でもあるけれど。
自ら求めていることとは言え、毎年この時期は精神上よろしくない。
この先の人生を想うと、殆ど何の展望もない。
我ながら、大丈夫か?と思う。
世の中と私が分断されている感じ。
私はひたすらパソコンに噛り付いて、生産性ゼロの可能性もある当てどない書き物をしている。
セリフを打っている。
途中、執筆の気分転換も兼ねて、たまに原付バイクで少量の買い物がてらに街ナドに出掛けることがある。平日だと確実に社会が動いている日常があって、特にこの時期だと大学生たちの卒業式の袴姿、子どもたちの入学式の真新しいランドセル、新社会人としての真っ新なスーツ姿の人たちともすれ違う。
「ああ、動いている」と思う。
私は春のスタートの景色を横目で見やる。
長い冬が終わって皆、新しく前へ動き出そうとする気配が充満している中で、きまって「私は一体何をやっているのだろうか」と俯く。
無性に社会からの“置いてけぼり感”を味わう。
気分転換だったはずなのに、最後には溜息をつく。
人恋しくて出て行っては、しおれて帰ってくる。
3月、4月、5月……春は私にとって孤独を感じる時期。
非力を感じる時期。
毎年それを繰り返して、20年が過ぎた。
その孤独の中で執筆を続けてきた。
そうこうするうちに、春先のこの期間、私は積極的には出歩かなくなってしまった。特に平日の昼間は出ないようになった。
世の中がしっかり動いているのを見ると、自分の今が怖くなるから。
出歩くとすれば、土曜日か日曜日。何となく世の中全体が休日感に包まれる日を選んで外出をするようになった。
鴨川沿いの府道でバイクを止めて、桜を見上げる。
休日だと、みんな今日は仕事を一様に一服しているから、私も何とか外気に身を置いて息ができる。
皆、休憩しているのだ。私も一服ついて、生きていてもいいじゃないかと深呼吸をする。
こうやって週末に息継ぎをすることで、また再び月曜日から金曜日まで、まるで海底を潜航する感じで過ごす。
執筆という目的があるにせよ、私の有り様は、
社会に対する「ひきこもり」と言ってもいいかもしれない。
現実から極力目をそらす期間だ。
結構息苦しい。
そうして20年間、書き続けてきた。
ところが今年は景色が違う。
全然違う。
毎年の私の漠とした不安と、世界全体が同調している。
結果的に。
誤解を恐れずに言うならば……今年は私はいつもの不安を感じない。焦りを感じない。孤独を感じない。
許されている感じに浸っている。
息ができている。
不安という感覚が重なり合って麻痺しているだけだろうか。
己の不安を、世の中の不安で相殺しているだけだろうか。
実際、辺りを見渡せば、
ほぼ全ての演劇公演が中止となっている。
これは恐怖だ。
悲しいことだ。
演劇人の知り合いが多いから、みんなのことを想うと辛い。
早く日常が戻ってくれなくては、困る。本当に困る。
昨夜も新聞の文化欄を読むと、6月某日の公演予定の演劇記事が掲載されていた。役者の意気込みなどがインタビューされている。
しかし、この先それが実現するかは正直微妙だ。いけない発想だとは思うのだけれど。稽古だってまともにできてないんじゃないかと心配になる。公演に向けてベストの稽古が組めたのかと心配になる。
街はどうだろう。
例年のごとく原付バイクで(特に今年は必要最小限となった)買い出しに出ると、人の少なさに驚く。国の要請を守ろうとする様子に、
「日本人って凄いなぁ」などと妙に感じ入ってしまう自分がいる。
インバウンドで賑わった京都の喧騒を疎ましがっていたはずなのに、実際周りから外国人の賑わいや意味不明の多言語の違和感が無くなってしまうと、それが逆に寂しくもあって、
「ボクはチャラかったんだ」と、自分の本音に出会えて、心の内の数パーセントがときめいている。
「これって新鮮な感覚だ……」などと。
「京都が多人種の街であることを、僕はとっくに受け入れていたんだ……」などと。
そんな風に客観的に風景を眺めている自分がいる。
まあ、そこまではいいとして、
今朝の新聞のチラシには近所のホームセンターの色刷りが入っていた。
「東京都ではホームセンターが営業停止要請が出るかもしれんのに……」
京都だって、この先わからない。
感染者数は、宣言の都市に含まれてもおかしくはない。
「このホームセンターのチラシで、はたして集客や売り上げに貢献しているのだろうか?」と余計なお世話の計算をしてしまう。
テレビをつける。
地上波はニュースだけでなくエンタメ番組もコロナ一色だ。
番組途中で流れる様々なコマーシャルが気になり始めた。
例えば旅行会社のCM。
外出を控える要請が出ているのに「今時旅行なんて無理やん……」と思う。広告料、物凄く高額だろうに大丈夫なんだろうかと。
例えば自動車のCM。
各国でロックアウトがされて自動車工場も閉鎖されていたりするのに、まして外出も行楽も仕事も自粛される中で、「車を買う人なんておらへんやん……」と思う。
例えば栄養ドリンク。例えば白物家電。etcのCM、CM、CM。
映像の中では密閉密集密接の三密の、現状ではやってはいけない“触れ合う日常”が、タレントたちの笑顔で映し出される。
私はCM画面に向かってつい愚痴ってしまう。
「そんな近くで相手に喋ったら飛沫感染するかもしれんやん……」。
「それより、まずはマスクせんと」。
「ちゃんと換気しとるんやろか」。
当たり前だが、これらのコマーシャルが収録された時はコロナなんてこと全く想定もしていなかったわけだ。だからこそ世相とのギャップが浮き上がり、能天気に映るタレントの笑顔を遠くに感じる。CMを出した企業だけでなく、実際に演じたタレントさんは、今このCMをどんな気持ちで眺めているのだろうか。
「今こんなコマーシャルを流せば流すほど、違和感を強くするだけで、視聴者は離れていくだろう。購買欲なんか出るはずないじゃないか」と思ってしまう。
「金を掛けてコマーシャルを放映する意味なんて無いのに」と思ってしまう。
毎日状況が悪化することを伝える番組と、明るさに満ちたコマーシャルの強烈な違和感。
経済に向けたベクトルが真逆に向かっていることが、生理として伝わってくる。
各国の代表者が、ほぼよーいドンで、それぞれ自国の舵取りに追われている。
大統領や総理だけでなく、それぞれの市長、村長、町長などの首長たち。
「まるで危機管理の能力を競い合う大統領や首相の国別対抗のオリンピックのようだ」などと揶揄してしまう。
「俺の政策は、あいつの政策よりもマシだろうか。秀でているだろうか」と、エゴサーチする首長の顔が浮かんでしまう。
日本の各地で統合型リゾートと称してカジノを併設する構想があるけれども、或いはまた5年後には大阪夢洲(ゆめしま)で万国博覧会が開催されるそうだが……世界中から人が集まった時点で新たなウイルスが発生したら、どうなるのだろうか。
今の外界の様子、新聞やメディアの在り方、
世の中の異常事態を、どこか冷めた目で評論している自分がいる。
冷めた目と言いつつ、一方で目を背けることなく、外界のあり様を積極的に眺めている自分がいる。
そしてしっかりと日常と自分をつなごうとしている。
怖い怖いと言いながら、
世界の日常を俯瞰している自分がいる。
芝居の台本を書いている身であるから、世界情勢や社会の変貌をウォッチするには、またとない機会だから。
気が付くと、私は健全に呼吸が出来ている。
これまでの4月は、ずっと世間を無視していたのに。
ひきこもっていない自分がいる……。
繰り返しになるけれど、春の執筆期間は、人間社会が確実に進行していることを意識の外に置いていた。社会の進行を無視することで書いていた。
しかし、今やそれは逆転した感がある。
社会がこれだけ停滞している様を見ると、例えばたったの一行でもセリフを書けた時点で、相対的に何か私が世の中よりも一歩前に進んだように錯覚をしてしまう。
書くことに集中すればするほど、心が浄化されていく気がするくらいだ。
と言って、書いている作品はコロナにまつわるものではなく、次元の全く異なる世界を書いている。
出口の無い執筆作業の20年間が私を逞しくしてくれた、などと言うつもりはない。
むしろ、世界の状況が益々恐ろしいことになっていきそうなのに、自分の精神不安を重ね合わせて上手くバランスがとれているとホッとしている自分の感覚が怖い。
なかなかに筆が進んでいるじゃないかと、焦燥感が消えている自分の健全さが怖い。
世の中が委縮して恐怖に呑み込まれそうになっている世界の姿を見て、私の精神状態は安定してきたわけか。落ち着いてきたわけか。
だってそうだろう、世界が不健康になったがために私の不健全さが目立たなくなったと一息ついているじゃないか。
これが正直な気持ちだ。
私って、こんな人間だったのか。
これじゃまるで、人の不幸をエネルギーにして執筆しているみたいじゃないか。
いや、
いや、
そうではない。
今ほどしっかりと世界をメディアを気にしていることは、かつて無かったはずだ。
今ほど自分と世界がつながっているという認識を持てたことが無かったはずだ。
私の生きるための仕事だって、この先確保できるかどうかわからない。
アルバイトなんて、最初に契約を切られる立場だ。
不安定は目の前に迫っている。
私自身が罹患するかもしれない。
大切な人がコロナで命の危機に陥るかもしれない。
恐怖は目の前にある。
他人事ではないぞ。
絵空事ではないぞ。
それは感じている。
これまでにない恐怖感があるからこそ、外界が気になって仕方ないわけだろ。
未知の恐怖感を感じているからこそ、自分の不安定さと相殺できているわけだろ。
それでも尚、依然として現実とは一定の距離を置き、置いただけでなく、自分の精神は安定してきていると感じるのは何故だ?
その余裕は何だ?
きっと私が今現在、コロナウイルスを心の底、芯から恐ろしいとは思っていないからだろう。
まだ、どこかでドラマを見ているような浮ついた感覚があるからだろう。
世界中で亡くなった方がいるのに。
愛する人を亡くした人がいるのに。
まさに阿鼻叫喚。
世界の医療崩壊の映像は現実なのに。
私は結局、人の痛みをわかっていないんだ。
本当には怖れていないんだ。
こんなことで、戯曲が書けるのか。
浮ついた気持ちのままに、戯曲を書いてきただけじゃないのか。
(ああ、ここでもまた「書けるのか」などと傍観している……そういう次元じゃないだろう)
人としてどうなのか。
だめだ。これでは。
もっと本気で、
自分と世界をつなげろ。
人と人が分断されている今こそ、
自分と人をつなげろ。
恐怖を見つめろ。
余裕かました自分の精神こそが、恐怖の対象であることを知れ。