いや暑い・・・
五月だってのに、もう外かんかん照りでさ。
紫外線ジリジリいってんのほとんど音聞こえそうだよ。
セミの鳴き声だか潮騒だかが聴こえれば、もうコレ夏そのものだよね。
ふー。
暑い。
およそ300年ほど時さかのぼる、ちょうど5月の同じ頃。
太平の世は元禄の時代。
詠まれた句にこういうのがある。
『あらたふと青葉若葉の日の光』
300年前もやっぱりかんかん照りの日光山で、噴き出す汗の向こうに広がる景観が、ある男の表現衝動をどうしようもなく刺激する。
日本史上最高の俳諧師。
暑い・・・
それでも彼は日本中を巡り歩いた。
旅から旅へ・・・
「あらたふと(アラトウト)・・・」
現代語に変換するなら、「ああ尊いことだ」の意。
ただここに形容詞の語幹を置く洒脱(しゃだつ)ぶりが天才の所以(ゆえん)。
わかる?
僕たちだって、使うでしょ?形容詞の語幹。
こと瞬発的反射として感覚強調する際には、形容詞、そのまま使わないよね。
たとえば、今キミの手が沸騰したやかんに触れたとしてみよう。
「・・・あつい」とは、言わない。
そんな悠長な言葉は出てこない。
「あつっ!」
これなら、言う。
戸外に出ると強い風に粉雪が巻き上げられて全身を一気に冷やした、としよう。
そんなときには、「う~さむっ」
裸足で歩いている砂浜で偶然割れた貝殻を上から踏みつけてしまった。
そんなときには、「いたっ!」
ね。
わかる。
形容詞は「暑い」「寒い」「痛い」。語尾(活用語尾)の終止形が「い」で終わる。
この終わりの文字の「い」を引き算して残る部分を「語幹」って言うんだ。
そして、反射的な感想はこの語幹だけで表現する。
「あつ!」「さむ!」「いた!」という具合にね。
つまり尊いと感じた瞬発的な感動を芭蕉は「ああ・・・尊い」と静かには言わないわけ。
「わぁ・・・とうとっ!」って躍動的に叫んだ(笑)!
「あらたふと」=あらとおと=あら尊(とうと)=ああ尊いっっ!
ここに身悶えるような感動の爆発がある。
いやーこの人、天才だよホント。
ただこうした不世出の才さえ権力におもねる様子が、むしろ江戸の世相を彷彿させる。
「日の光」=日光東照宮=東照宮権現様=徳川の政体
まあつまりそういうこと(笑)。
ちなみに季語は若葉。季節は初夏。ちょうど今ごろだよ。
ものの本には季語を「青葉若葉」と定めるものもあって、もちろんそれは間違いじゃない。
でも厳密には元禄のこの当時、「青葉」という季語はまだ存在してはいなかった。
俳句はもと俳諧連歌の発句に過ぎないもの。
これを詠むのもそれを読むのも、要するに人。
ちゃんと肉体を持って、感情があって、モノを言う人間なんだよね。
どんなに暑苦しい景色でも、それを見る人間の目に別様に映ることもある。
その意味で、いまキミの前にある景色は、自分で作ったものなんだ。
客観化された芸術鑑賞、なんていう冷厳で立派そうな砂上の楼閣など、粉砕してしまえばいい。
僕らはみんな当たり前の人間だ。
そこからいつも出発しよう。
文章読解も、論理だけが先走るわけではない、構造解釈がすべてというわけでもない。
夢も未来も欲望も、言葉で語り紡がれたものだ。
だから、「現代文」を学ぶ際は、単なる受験技術だけで語りきってしまうような場面を警戒すべき必要性がある。
「ことば」を学ぶということが、安易ではないことを、早い段階できちんと教わる必要がある。
そして、できれば「楽しく」、消化によい授業を通して(笑)。
そこで・・・
この夏、あっち行って語り、こっち行って語ります、僕!
どんなに暑くても・・・(笑)。
え?どこへ行くのって?
もちろんみんなのもとへ。
かの俳聖の東奔西走ぶりに比するは、おこがましくも不遜そのものですが、
暑さに弱い僕には、元禄時代と違って、最新のエアコンシステムとユンケルがあります(笑)。
カフェイン摂取しまくって、頑張りまーす(笑)!
さて、そんなわけで僕、宗慶二。
来週の成城学園を皮切りに、今季夏の公開授業に東奔西走します。
行く先々で、元気一杯なみんなに会えることを楽しみに、今からワクワクしています。
ぜひぜひ奮って参加してね!
6/1(土)成城学園北口校
6/8(土)西葛西校
6/15(土)府中校
6/21(金)尼崎:東進衛星予備校
7/6(土)取手校
7/7(日)上本町北校:東進衛星予備校
7/13(土)志木校
7/15(月)高円寺校
7/20(土)成増校
7/21(日)小手指校
日本最高の俳諧師、俳聖「松尾芭蕉」