「メラニアンの法則によるとさ、人は見た目で93%まで印象がきまっちゃうんだよね。何を話したかなんてほとんど聴いてないんだ。」
「へーそうなんですか。」
「うん。だから見た目が肝心。」
「たしかに僕たちって、ほとんど人の話を聞いてるようで聞いてませんよね。」
「な、だから、スーツとかネクタイとか、髪型なんか、やっぱ気づかわないとさ。」
「オシャレしないといけませんね。」
「そうなんだよ。俺達もっと自分に投資しないとな。」
・・・ここ東京、品川区、某スターバックス店内。
カフェの片隅で、ずーっと下向いたまま陰気にテキスト教材作りに専念してる僕。
すぐ近くのテーブルに陣取って大きな声でビジネスの「本質」を話すお洒落なスーツの男性ふたり。
新入社員と、少し先輩ってとこか。
ふーん。
見た目が93パーセントね・・・そりゃすごい・・・
話の内容なんて誰も聞いちゃいない、わけか・・・
なるほど。
そう思う僕と、
それならオレのやってることはなんなんだろう。
そう思う僕と。
印象って大事です。
僕たちはときに第一印象でその人のおよそのイメージを形成してしまうこともある。
同感。
でもさ。
ぷ(笑)。
93%(笑)?
なに、そのデータ。
どんな母集団?
相当偏った標本?
比較対象の定義が異なったり、利害関係のある調査員が介在したり・・・
統計資料なんてものは、すべからくその読解に特段の注意が払われるべきものでしてね。
安易に「専門家」に任せて鵜呑みにしちゃうと、けっこうな誤解がいかにも「常識」づらして市民権を得てるような場面も散見されるんだよ。
それが・・・ぷぷ(笑)。
どこで勉強したのかなそれ、ほんとに大丈夫(笑)?
おそらく彼らが話題にしていたのは、メラニアンの法則ではなくて、「メラビアン」の法則のこと。
ほんの少しの違いだから、まあそこは目くじらを立てる必要はない。
彼らのような高声ではなく、ぼそぼそってつぶやくと、それこそ聞き分けられない程度の差だもん(笑)。
社会心理学者にアルバート・メラビアン(米)って人がいる。
ちまたでは怪しい学説として位置づけられているきらいがあるけれど、それは不当な誤解だ。
メラビアンの法則はそれ自体としては適切なものだ。
ただ、妥当範囲が極めて狭いもので、そのために一般的な汎用性に欠如するものと解釈されている。
この実験は「たぶん(maybe)」という単語を聞かせて、言葉の内容と声質(ないしそれを言うときの表情)とが矛盾しているときに、聴き手がどちらを重視して意味を解釈するかの検証をしたもの。
つまり、これは態度(感情)いかんによって、言葉はその意味内容のままには伝わらないという点を確認したものに過ぎないんだ。
たとえばほら、めちゃ不機嫌な態度のまま、「すみませんねぇ、ぜ~んぶこっちが悪かったですよっ!」なんて憎々しげに言われても、謝罪されているとは感じられないものでしょ。
これ、メラビアンの法則(笑)。
まあつまり、
①どちらともとれる曖昧な内容で、
②表情(口調)と言葉の意味とが矛盾するような場面では、
③表情に重きをおいて解釈する人が多いってだけのことなんだよね。
それが、よくある自己啓発セミナーなんかでせっせと間違いを伝えたり、ベストセラーにもなった『人は見た目が9割』(竹内一郎・新潮新書)なんかで盛大に誤解した紹介がなされたり、しているうちにね・・・
スタバで耳にするような会話(笑)。
・・・そこなる会社員のお二人さん。
人は見た目が大事。
ふふ(笑)。なるほどキミたちの言う通りだ。
スーツもネクタイも、髪型も、口調や話すスピードや、立ち居振る舞いも、ぜんぶ大切だ。
でも、それらはすべて「言葉」そのもの、「表現」そのものなんだよ。
言葉という概念をバーバル・ノンバーバルにもっともらしく切断して議論しても無駄だぜ。
いいか。しっかり覚えておけ・・・
(と、ハードボイルドを装ってますが、ぜんぶ心のなかでささやいてるだけの気の弱い僕(笑))
もしかしたら僕は、いいスーツ着て、高そうなバッグを持って、見た目も爽やかでカッコよかった彼らのことが、ちょっと羨ましかったのかも(笑)。
(だって僕はTシャツにすり減ったジーンズで、ぼさぼさの頭にキャップだもん(笑))
でもね。
見た目なんてのはさ、不快にさせない程度に清潔であるくらいには気づかって、もうそれでいいじゃないのかなって思うんです。
伝えたい、と強く願う本当の気持ちがあるか。
小手先の技術なんてものは、そうした思いに支えられて勝手に具体化するような気がする。
目の前の人を楽しませたいと本当に思っているか。
ショーマンシップの精神もステージングの技術も、ぜんぶ後からついて来るような気がする。
換言すれば、技術などというものを先に要領よく学んだところで、目の前の人に向けた「魂」が入ってなきゃ、どんなプレゼンテーションもパフォーマンスも、画竜点睛を欠くってこと。
さらにべつの見方をするなら、学んだ技術なんてのを後生大事に有り難がってもお話にならない。
そのまま使えると思うと、結局みんな同じに見えちゃうってこと。
おんなじ髪型して、おんなじスーツ着て、おんなじようなことしか言わなくなるってこと。
自分の外見にあぶく銭投資するんじゃなくて、自分の心の中の闇としっかり向き合う時間を投資しなきゃね。
何かを伝える仕事って、ほんと大変だな~。
・・・と他人事のように思いつつ、スタバのテーブルからメール送信をしようとした。
「テキストの件について」・・・
その瞬間・・・妙な違和感。
ん?
なにか変だぞ?
・・・あ!タイトルが!
「テキサスの件について」・・・(笑)
あぶねー。
気づいてよかったー。
テキサス、だってよー。
ひー予測変換こえー。
と思う僕と、
ぷ(笑)。
でもちょいかっこいいかも(笑)。
このまま送っちゃおうか、
と思う僕と。
こんな表題のメール。
教材担当者はどう思うのでしょう(笑)?
タイトルの違和感に爆笑するか、「テキスト」の件だろうとアッサリ受け流すか、荒野に吹きすさぶテキサスの乾いた風を突如想像しはじめるか・・・
もしこのまま送信すれば・・・
と、訂正する前に僕は、少しだけ想像するんです。
ここには、笑いか話題かが生まれるだろう、と。
つまらない誤りにすぎなくとも、否、つまらない誤りだからこそ、
人と人との柔らかく微笑ましい交錯が生まれるだろう、と。
誤りに触れられれば触れられたで羞恥に赤面し、触れられなければ触れられなかったでどこか後ろめたく申し訳ない。
繊細で精妙なコミュニケーションは、ときにそうしてマニュアルの埒外(らちがい)からやってくるものです。
コミュニケーションの本質は決して要領や技術などではない。
ましてや見た目だけで90%以上が規定されるものであるはずがない。
そうしたものが不要だと言いたいわけではない。
効率性を、むしろ超越した地平にこそ存在していると、僕は信じている。
スタバの片隅でそうして陰々黙々とテキストを作成しながら、ときにつまらぬ想念に逃避し、独りにやにやしながら(自分と向き合う)怪しい僕でした(笑)。
「この実験結果を日常のコミュニケーションに適用することはできない。(アルバート・メラビアン博士)」