会社を辞めてからの数日間、私はずっとこの街の探索をしていました。
こちらに赴任して以来、忙しさばかりが先に立ち、今までこの街の雰囲気をまともに味わったことがなかったのです。
地元に帰ると決めたからには、遠く離れたこの土地を再び訪れることはおそらくないでしょう。
そこで最後に一人であちこちを巡ることにしたのです。
せめて何かひとつぐらい、良い思い出を残すために……。
そして、ひと通り観光地を巡り終えた夕暮れ時、私は思いもよらない場所で、また新たな発見をしていました。
「なるほど、こんなところに暮らしていたのか、俺は」
そう感じたのは自分が寝泊まりしていたマンションの周辺でした。
そういえば、明るいうちにこの道を通った記憶はほとんどなかったように思います。
度重なる休日出勤、残業に次ぐ残業で、休みの日といえば寝て過ごすのみ。
それだけが私のプライベートでした。
そんな私にとって、この界隈はホテルの廊下と同じで、無関係な扉が並んでいるだけのようにしか感じられなかったのです。
ところがゆっくり歩くだけで、ここには様々な生活や人生があったことにあらためて気が付かされます。
ガーデニングに通学の標識、ゴミ出しの看板に、ポストに突っ込まれたチラシ。
それらすべてが、ここに誰かが暮らしているという証しのようです。
(あの会社にいた3年間は、自分にとって一体何だったのだろう)
ただの住宅街の風景なのに、今日に限ってそんな事を感じてしまう自分がおかしくてなりませんでした。
もうあの会社とは関係がない、そう思うと少しは悲しくもありました。
ただ一方で、これでようやく自分を生きられるのだという喜びも大きかったのです。
そして今、この景色を目にして、私はようやくその思いを確かなものと感じる事ができたのでした。
マンションの賃貸契約が終了するのは明日。
明日の夕方には、実家へ着く予定です。
(マンションがあそこだとすると、この辺りが裏手か。丁度あそこに抜け道らしきものがあるぞ。ちょっと行ってみるか)
私はたまたま目についた狭い路地に、つい誘われるように入ってしまいました。
コンクリート壁とフェンスに挟まれ、誰かとすれ違うのも厳しい道幅です。
すっかり忘れていた冒険心をくすぐられたようで、なぜだかワクワクする気持ちが込み上げてきます。
フェンスを突き抜けて張り出した枝をガサガサと払いながら進んで行くと、そこには広く美しい庭を抱えた立派な日本建築がありました。
どうやらそれは個人宅へ通じる私道だったようです。
気が付いた時には、すでに敷地内へと踏み込んでしまった後でした。
しかも都合が良いのか悪いのか、私は庭を抜けたその先に、目指していたマンションへ通じる道路を見つけてしまったのです。
一瞬どうしようかと迷いましたが、もうここは知らなかったフリをすることにして、さっさと通り抜ける事に決めたのでした。
家人に見つからない事を祈りつつ、内心コソコソと、態度は堂々と庭を横切り、真ん中辺りまで来た時です。
庭石に腰掛けて携帯ゲームをいじっていた少年とバッチリ目が合ってしまいました。
(まさか、こんなところに人がいたなんて!)
「あ、いや、ごめん。ここが個人宅だって気が付かず入っちゃったんだ。怪しい者じゃないよ、すぐ出て行くからね、勘弁してね」
空き巣の言い訳と同じだと感じながらも、真実を述べる私に偽りはありません。
心の中では冷や汗をかきながら、とりあえずその場が無事に過ごせる事を必死に祈りました。
「あ、はい」
しかし私の心配なんてどこへやら、少年はこちらに向かってにっこり笑顔をくれたのです。
そして、その視線はすぐに手元のゲーム機に戻り、私の事など気にする様子もありませんでした。
(よかった~)
心の中で汗を拭いながら、出口に向かって再び歩き出そうとした瞬間です。
ピロリロリロロローン♪
自分の心の中に刻まれていた聞き覚えのあるメロディに、私の足は止められてしまいました。
再び少年の方へと振り返りその手元をよく見ると、なんとこれはまた三世代も前の携帯ゲーム機ではありませんか。
「君がやってるそれって……もしかして、エルザの伝説?」
「うん」
「あぁ、やっぱり! 懐かしいなぁ」
「おじさん、知ってるの?」
「もちろん、学生の頃夢中になったゲームだよ。今どの辺?」
「レベル3の迷宮に向かってるところ」
「そうか。ちょっとだけ後ろから見ていい?」
「うん、いいよ」
画面の中で動き回るキャラクターを後ろから眺めているうちに、ゲームに夢中になっていた頃の感覚が、私の中に蘇ってきていました。
「ちょ、ちょっと待って。そこそこ」
「ここ?」
「うん。そこに爆弾を仕掛けて」
「こう?」
すると爆発音の後、ピロリローンという私にとって馴染みの音とともに、秘密の洞窟への入り口が開きました。
「おぉー!」
洞窟の中には賢者がいます。そして、特別な力で主人公のLIFEの最大値を少し増やしてくれるのです。
「すげーえ! おじさん、よくこんなの知ってるね」
「まぁな、次に行こう次。そこから三つ横に行って。そこに爆弾を」
次の秘密の洞窟ではアイテムの最大保有量を増やしてくれました。
「すげーよ、おじさん。ありがとー!」
「へへっ」
このゲームには、まともにプレイしていても知り得ない、俗にいう〈裏技〉というのが、実はたくさん隠されているのです。
裏技は主にゲーム発売後、間を置かずに売り出される攻略本に記載されます。
もちろん、その裏技を知らなくてもゲームをクリアする事は可能です。
ただ、攻略本を手にした者だけが裏技を知り、ゲームを有利に進められたのです。
今になって考えてみると、関連商品で収益を上げるためのメーカー戦略に、単純に乗せられていただけだったように思いますが。
「ねぇ、他にもある? 秘密の入り口」
「もちろん。さっきみたいな地形のところは、念のために確かめておいた方がいいよ」
「うん」
このキャラクターの動くテンポに合わせた軽快な音楽に、私はすっかり童心に返っていました。
今ではどの子もやっていない、こんな古いゲームを、なぜこの子がやっているのかはわかりません。
「おー、ここにもあった。おじさん、スゲーよ、スゴ過ぎるよ」
ただ、このゲームを通じることで、ほんのわずかな間に、私はこの子にとって尊敬の対象となっていたようです。
もっと昔ならベーゴマ、凧上げ、けん玉、メンコなどだったのでしょう。
時代とともに子供の遊びは変わり、いつしかこんなモノで世代がつながるようになっていたようです。
「知らない人のお宅に、長居し過ぎちゃったかな。おじさん、そろそろ行くね」
「え、そうなの?」
「うん、明日は引っ越しでここを離れなきゃならないからね。そろそろ荷造りしないと」
「遠いところ?」
「うん、かなりね。実家に帰って新しい仕事を探すんだ」
「もう会えないんだ」
「ごめんね」
「じゃあ、お礼に何もできないけど、おじさんの仕事が上手く行くように僕が祈ってあげるよ」
「それはうれしいな」
「ホント?」
「あぁ」
満面の笑みをくれた少年の顔を、これから先も私は忘れることはないでしょう。
苦しい記憶ばかりが詰まったこの地にあって、たった一つの楽しかった思い出、そしてたった一人、仕事以外で見つけた友達なのですから。
帰宅して荷造りを終えた私は、急遽、ここでの最後の仕事に取りかかりました。
明日あの子へ渡すゲーム攻略メモの作成です。
今から古本屋を探しても、おそらくあの攻略本を見つけるのは困難でしょう。
それならばと思いついたのが、古いゲームの裏技を集めたインターネットのサイトを探すことでした。
ひょっとしたら程度の気持ちで検索したのですが、驚くほどたくさんの情報を見つけることができました。
中には自分も知らなかった裏技まであります。
その中から比較的分かりやすく、あの子にとっても特に有益であろうものを選び、買ってきたばかりのメモ帳十数ページに渡って記しておきました。
充電式ではない古いゲーム機は電池が無くなるのも早いのです。
一緒に八本組の乾電池パックも付けて、明日あの子に渡そうと決め、私はようやく床につきました。
翌朝、いつもの喫茶で朝食を取り終えた後、私はもう一度あの家へと赴くことにしました。
小学生ですからこの時間にあの子が家にいるかどうかはわかりません。
もしいなければ、手紙と一緒にメモ帳を家人に預けるか、ポストに入れて帰ってくるつもりでした。
ところが……、
目的の場所に着いたにもかかわらず、どこにもあの家が見あたりません。
同じ場所を行ったり来たりしても、広い庭園を抱えたあの立派な日本建築を見つけることができないのです。
業を煮やした私は昨日と同じ細い通路を通って、再度あの家の庭に直接進入する事に決めました。
抜け道はすぐに見つかり、私は昨日と同じように、頭の上を横切る枝を払いながら進みます。
けれども、その先にあったのは……、
鬱蒼と生い茂る雑草に覆われた敷地、そしてその中央に古びた社殿がひとつ。
よく見ると社殿から延びる石畳の先には鳥居があり、先ほど自分が行き来していた道路につながっているではありませんか。
「な、何なんだこれは……」
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