Яe:ホリデイ。 -4ページ目

TOKYOよりこころをこめて。


狭いコンクリートタウンには
溢れんばかりの人。
1度も話すことなく、道の上ですれ違った
あの人も、はたまたあの人も、
こころを宿して生きているんだろう。

ぼくたちが生きていく中で、
こころを通わせる機会がある人はほんの一部、
大勢に紛れて目にも見えない点でしかない。
それなのに、人1人のこころのキャパシティなんて
本当に儚いもので、ここ東京で生きていれば、
あっという間に水は溢れる。


こころを込めて生きていくことは、
それだけこころが摩耗することと
同意義なのかもしれない。


景色の一部であった人間が、
こころを通わすヒトとして認識したとき、
そこには縁が生まれ、礼節、心象、人間関係が形成される。
その多くは組織に属したとき、
つまり学校や仕事で経験するのが最もだろう。


けれど今の時代の人はそんなことでは挫けない。
病気に免疫がつくように、過去の人類と同じ轍は
踏まない程には頭が良いのだ。


そしてそれはごく簡単なことで、
組織的なコミュニティに関心を持たない、
こころを込めて生きないだけで済むのである。


この、人の溢れるコンクリートタウンは、
こころを込めて生きない人たちが彼方此方にいる。
それは度々、労働人形と揶揄されることも。


こころは純粋で脆い。
大人のこころも、本当は子供の頃と同じものが、
いっぱい詰まっているんだってことが、
誰かに伝わればいいなって思います。


こころは、使わなければ人格が朽ちる
きっかけにもなってしまうし、
こころが引き摺られれば、すり減って朽ちる。


ここでこころを込めることは、、
大人がこころを込めるということは、、
そのことが持つ力・そうしたヒトの気持ち、


世界は日々広がり、東京もTOKYOとして
変わっていきます。
TOKYOよりこころを込めて、
大事な人たちと毎日を与えあっていきたいですね。



時間跳躍の間、瞼の裏の景色を眺めてる。


一昨日より昨日、昨日より今日、今日より明日、
きっとその向こう続く先も。

次の日へと踏み出す一歩の重みが日々更新され続け、
歳の重なりと重圧のカサ増しに時間を忘れ、
寝る前の少しだけの自分の時間をちょっとした趣味に使って目を閉じる。

そうして朝日が取りすぎる頃に目を覚ましては
髪のセットもままならない内に、作り直せていない家の鍵のスペアを握りしめて玄関を飛び出していく。

瞬きをすると、今日がうたた寝をし始め、
微睡んだ世界をゆっくり帰路についているのである。


そんなことを繰り返してみれば、いつのまにか地面に突き刺さる冬の匂いはどこかに消えていて、
体感する時の流れはほんの一瞬、そう瞬きの内にとでも言っても過言ではない。


瞼の裏では、昔はそうしたかったであろう人生のビジョンが景色を広げていた。


いずれ老いて、老いた先に三文以上の得がないのであれば、若かりし時代に幸せのピースをかき集めて朽ちようと。


目を閉じれば、その純粋な夢を裏切ることなく、
毎日に誰かが寄り添ってて、毎週末が写真に収められていくのだ。その様が広がっているのだ。


目を開ければ、また今日がはじまり、そこには当時の自分の何倍もなにかの責任を抱えた自身が、肩や腰が痛くて鈍い自身がいる。


瞬きの内に過ぎてしまうことは少なくない。
時間跳躍にも感じ間違う今とは、決して普通色に染まった絶望じゃない。


瞬きの内に、瞼の裏の景色を表に引っ張り出すのだ。


極の感情はSNSにならない。


マニュアル業務については、やり方があるし、正解も不正解も分かるものだけれど、
マニュアル業務でさえも、いずれは自己流を見つけ、それを磨く。

それなら営業や交渉や主幹事の取りまとめ方なんて、正解の形はその時々で変化し、対応力を求められる。

今日、仕事でミスをした。
暗黙のルールの中で、手探りで泳ぎ進めてゆくには、
オールの一本や二本折れてしまうものだろう。


溜まったモヤモヤに行き場はなく、
早く寝て、明日は明日のToDoを消化してゆかなければならない為、
残された今日は少ない。


新人類は、その時々の感情をコミュニティの中で主張し、共有する。
自分自身も例に漏れず、どこかへ行けば写真を載せたり、面白かったことは、共有して人に見せたがる。


だがしかし、今回のようなケースは、言葉にすれば言霊がそれを拾い重苦しい空気を纏うであろう。
それを思えば発散にもならず、したがって共有もしたくない。


逆に幸せすぎる出来事だって、見せびらかしてしまえば味が無くなる気がして、1人で噛み締めるだろう。


極端に振り切れた感情は、SNSにはならないのだ。
ではSNSの中では一体なにを共有してるのか、というと、面白かったことやネタや自慢が主体なのである。


今やSNSも取り繕ってしまう世界である。
そこにあるのは虚像である、と言っても大げさにはならない。


そんなことをなんとなく思いながら、沢山の人の目に触れない形でブログというSNSで言葉にしている自分自身。

だからこれが書き終わるころにはきっと、
今日の出来事は極な感情にはならなくなっているだろう。


言いたかったこととはつまり、最近SNS上で見かけない人たちにも、その間には紆余曲折したドラマがたくさんあるのだろう。と、我が身を持って知ったということである。