Яe:ホリデイ。 -3ページ目

人生は、変化と選択の連続。


エンタメというものづくりを仕事にして、もうすぐ10年。
いくつものコンテンツに立ち会っては、本当にたくさんの人とはじめましてをして、そして終わったらまた会う日まで。

これを何度も繰り返している中で、この今の気持ちは慣れるまでだと、慣れたらきっとはじめましてをなんとも思わなくなると言い聞かせて10年。

未だ出会いと別れの小節は好きにはなれない。
だから20代半ばからは、プライベートは懐いた人との時間を割いていこうと心に決めて往く数年。
これが非常に心地よく、なんとなく続いていくものだと思ってきましま。


彼に初めて会ったのは18歳、上京して間もない頃に、
東北出身の何気ない集まりで知り合いました。

はじめはそんなに認知してなかったものの、
ふとした会話で発したのであろう自分の誕生日に
ささやかなプレゼントを貰ったことがキッカケで、
なんて気配りの備わった人だろう。と心改め彼を認識した覚えがあります。


彼は当時22歳で4つ上だったものの、
その気配りはそれ以上の大人びた立ち振る舞いにも感じ、
多少ながら遠く離れた存在に思っていた気がします。

間違っていることには間違っていると柔らかに伝え、
その応対はまさしく完璧でした。

当時10代の頃の自分は、その絶対的正義をなんとなく苦手と感じ、人柄に好感を持ちつつも、自分をジャッジメントされることに恐れを抱き、直接的なやりとりは敬遠しました。

そんな出会いから数年、20代半ばの決意から間もなく、
たまたま家が近くなったことにより、彼を含めて3人で食事をする機会が増えました。


花が咲く過去の話、あの時の心情。


彼の心にうつっていたのは、誰にも取り払えない一寸の闇でした。
完璧主義で、誰かを傷つけるなら自分を傷つけ、
誰かの頼りになることが、生きている快感でした。

久しぶりに再会した彼の中の虚穴は肥大しながら、
それでも今までの彼を演じ続けているのだと、知りました。

その瞬間、彼を非常に身近な存在に感じたことをはっきり覚えています。

それから、彼を含めた近所の集まりを心の拠り所として、
春も、夏も、秋も、冬も、持ちつ持たれつ生きてきました。

旅行も定期的にいきました。


人生とは、その哲学の答えとは、
今もたくさんの人が持論を提示していく中で、
彼もまた大きな決断をします。

変化し続けたい。


それはきっと、彼が行き着くに相応しい素敵な答えでありましょう。


変化したい。その言葉の孕んだバックグラウンドにはきっと、
今まで頼られる人を演じた上での、想像出来ないほどの悲しみや苦しみ、痛みがあったのだと思います。


それなら僕らは、その痛みを持って決断したあなたを信じましょう。

日常のキリトリ線

ヒト気の無いビル街の真ん中。
人は居ないのに、オフィスの灯が照らす夜の大通り。
今にも降り出しそうな湿った空気。


誰かの遠回しな優しさに気付いた瞬間。
部屋の中の冷たい壁に寄り掛かっては、少しずつ酔いがほどけていく瞬間。
窓から入る少し冷えた風。
玄関に脱ぎ捨てられたピカピカの靴。


高く登った太陽の強い木漏れ日。
シャツの裾を撫でる夏前の風。
少しずつ遠ざかる雑踏。
社会の歯車から無力な個人に戻っていく時間。


桜散る並木道。
夏の真ん中で童心に帰って飲むラムネ。
紅葉以外、灰色に染まっていく街。
厚いコートをすり抜けて肌を突き刺す冬の匂い。


ある晴れた日に突然降る雨。
曇天に包まれた梅雨の日の駅。
傘を持ち寄って寝巻きで行く近所のドラッグストア。


月曜の昼過ぎに来るLINE。
火曜の飲み会の帰りのひとりぼっち。
いつもより早く寝たいと思う水曜。
誰かと食事をしたい木曜。
やっと仕事が終わったあとの金曜の待ち合わせ。


余計な一言で衝突して凹んだ瞬間。
目を見て笑ってくれた瞬間。
泣きたいだろうに、笑い話に昇華しようとする誰かの哀しみが伝染した瞬間。
仕事で褒められた瞬間。
少しずつ、なにひとつ、消えず蓄積された、過去の痛みや哀しみ、誰かの泣いてる姿、それらが不意に思い出された瞬間。

風呂あがりに飲む炭酸。
寝る前の音楽。
ベッド転がる昔からのタオルケット。



忘れないようにメモしておこう。



目に美しければ心は朽ちる。


過ごしやすい春の日の訪れ。
少し乾いた夜が続く最中、小さな春の兆しを桜が知らせ、
桜が咲く頃には雨が、風が毎日続き、
その花弁を全力で散らしに掛かる。
そうして桜散り切った頃、陽気な春の日となるのです。


桜の散る姿、年々増して美しく見える。
切なく見える。
光の破片が溢れて目の中いっぱいに広がる。


もう29回も見ている光景なのに、
より一層美しく見えるのは、
心が少しずつ、朽ちていっているから。
身が朽ちていっているからなのかもしれない。


それは確実に自分が今生きて、
確実に死に向かって歩んでいるからなのかもしれない。


私たちは死生観を、時には同じ人間以外の存在から学ぶこともあります。


命は、身体と心に宿るけれど、
心は生き様の写し鏡みたいなもので、
心が敏感に感じとったものは、
喜びあっても、痛みであっても、大切にとっておくべき。
それを知ってみて、普遍的な光景に
有り難さを感じ取るんでしょう。


自分を大切さを知るということは、
他の誰かの大切さを知るということです。

普遍的な光景の中に美しさを見出せたならば、
自分の中の大切なものも見つけられずはずです。

心朽ちて豊かになる心もある。
そう信じて20代最後の春の日を迎えました。

これから来る時代の波に流されて溺れてしまわないように。
誰か泳ぐことをやめてしまわないように。
自分は自分を大切にすることを、やめずに今年も生きていよう。


今年はたくさん桜を見に行きました。
大きな木の下で散る姿をたくさん目に焼き付けました。
今までそれとも、これから見るそれとも違う景色だったと、非常に感慨深く思います。