家内の母が亡くなりました。
末期癌に苛まれ、最後はホスピスへの入院でした。
抗癌治療を中止して三日目ほどすると目に見えて体調が
悪化していきます。
肺に腫瘍がある為、苦しそうな咳をしたり
膵臓にも転移していてしゃっくりが止まらなかったり
急に発熱して40度近くなったかと思うと
逆に35度台にまで低下して震えたり
肝臓の腫瘍は胆管に影響を及ぼし黄疸が出たり・・・。
日中は、必死で耐えている様子でしたが
夜中になると寝ていてもベッドから落ちるほど
もがき苦しむという日が続きました。
僕の長男が妻、義父と付き添っている部屋に
主治医が来て
「もう起きられない体なのに痛みのせいで夜中にベッドへ起き上がられます。
落ちる危険もあるし、あまりに苦しそうなので痛みを除く
点滴を入れようと思うのですが、許可を頂けますか?」
と言ったそうです。
息子は、意味が分からず家に帰ってくると僕に尋ねました。
「何故、許可を取りにきたかというと・・・
その点滴を入れるとお婆ちゃんの痛みをなくすために薬が働いて
神経が麻痺する。
それほどきつい薬だから、お婆ちゃんの意識は亡くなるし
体にも負担をかけるので、それをするとお婆ちゃんの寿命は
あと二日程度しか持たないんやそうな。
それで、してもええか?と確認にきはったんや。」
息子にとっては、その内容が余りにもショックだったようです。
「おばあちゃん、僕に色々しゃべってくれはるのに・・・
ばあちゃん、辛抱強いから痛みなんか辛抱できるやん!
痛みは心で辛抱できるけど、寿命はどうしようもないんやで!
なんで、寿命を縮める薬なんか打つの!」
まったくその通りです。
「でも、傍らで見ているじいちゃんや母ちゃんの気持ちも解るやろ?
ちょっとでも楽にしてあげたいという気持ち、お前も一緒やろ?」
黙ってうつむいた後
「それやったら、婆ちゃんが元気な内にそのこと相談しとけば
よかったのになあ・・・」
と涙こぼしていました。
「そやなあ・・・父ちゃんの時は、死ぬ迄意識持ってお前としゃべりたいし
南無阿弥陀仏いいながら死にたいから入れんように今から頼んどくわ。」

「今から言われてもなあ・・・・・でも、憶えとくわ。」

「あ、やっちゃん・・・」

「何、父ちゃん?」

「痛いし、やっぱり入れてってゆうたら入れてな。」

「どっちやねんな!」

と親子で話し合って寝た・・・その夜、3時半に
「家内から点滴入れました」とメールが届きました。
そのちょうど二日後、午前4時32分に往生の本懐を遂げられました。
妻が見ているので、何となく韓国の時代劇「イ・サン」というのを
一緒に眺めています。
それほど力は入れていないのですが・・・
それでも見ていると韓国って儒教の国で礼儀正しいなあという
印象を強く受けます。
毒舌の友人に言わすと
「韓国人は自分の国を美化し過ぎや!
ここまで極端に自分の国の王様を美化するか!」
と息巻いていますが
自分の国を美化することに嫌悪感を感じてしまう
今の日本の風潮よりは、うんと素晴らしいと思います。
反省することは何よりも大事な事だと思います。
しかしながら、自分の国に誇りを持てない国民では
あまりにも情けないし
自分の国に誇りを持てない国政では
国は滅びてしまうのではないか?
と不安になります。
反省すべきことは反省する。
誇るべきことは誇る。
当たり前のことですが欠けているように思います。
昨日、百万遍の台下からお話を賜った。
台下が福島の被災地へ慰霊で出かけられた折
避難を受けた方々に数珠を授けておられた。
その中に小学校二年くらいの坊やが並んでいるのをご覧になり
事情を聞くと、その子達のお母さんが津波に遭い行方不明に
なっているとのこと。
台下は、その子達に数珠を授けられると
「坊や、お母ちゃんに逢いたいやろうな。」
とお尋ねになられた。
すると坊やは素直に
「うん、逢いたい!」
と答えた。
その言葉を聞き台下は
「坊やお母ちゃんに会いたくなったらなぁ
寂しくてたまらなくなったらなぁ
お母ちゃんの名前を呼んだ後、ナムと呼ぶんだで。
南無阿弥陀仏というのは、ここにいらっしゃる
この仏様だから、南無阿弥陀仏とこの数珠持って
呼ぶんだで。」
とおっしゃったのだそうだ。
すると、その子は大きな声で
南無阿弥陀仏。お母ちゃん逢いたいよぉ!
と大声で叫んだのだそうだ。

このお話で御前様がお伝えになりたかったのは
念仏を申せば、お母さんが見つかるとかではなく
また、南無阿弥陀仏と称えることで自身の往生が
決まっていくというのでもなく
ごちゃごちゃとした理屈抜きに
「辛い、悲しい時に親の名前を呼ぶ
そして仏の名を呼んでご覧なさい。」
ただそれだけなのだ。
その結果、何がどう変わるかではなく
呼びたいときには呼べ!
呼ばずにおれん時は呼べ!
理屈なしということなのである。
百万遍念仏を如何に伝えるかを勉強する会であったから
恐らく御前様は、善阿空円上人が後醍醐天皇から
京都の災害救済の為に祈祷せよと命じられた時の
お気持ちについて
「理屈抜きに、念仏しかすがるものはない」
という気持ちで百万遍を称えたのだということを
お伝え下さったのだろう。
研修会自体はしっかりと計画されたものとは
決して言えないものだったが
台下のお言葉と長年に渡り本山の丁稚小僧を務めてこられた
上人の百万遍一筋という姿勢が学べただけでも
実に貴い研修会でした。
今日は百万遍大本山の宝物を見せていただきました。
円山応挙の「難福図絵巻」を弟子が模写したものが展示されていました。
人災では斬り合いで血だらけの人が死んでいる図等、河鍋暁斎ファンの僕には
たまりませんです。
天災の巻では地震に怯える人達、そして押し寄せる津波、竹にしがみついて
避難する人達・・・。
本来ならば、耐えられぬほどの不安を感じるのでしょうが
昨夜、NHKで津波に襲われた田老という町の住民が撮った映像を見た後なので
あまりリアルさを感じませんでした。
動画で津波が高さ10mの堤防を越えて、押し寄せてくるシーンは
映画よりも応挙の名筆よりも恐怖を感じさせるものでした。
予てから我が宗、(いや僧侶界全体かもしれない)に失望を感じる出来事が
ずっと続いていて、八百年を境に急速的に我が宗は衰退するのかと感じていましたが
今日、教師養成の道場で奉仕して下さっている方から
心強いレポートを頂戴しました。
これから僧侶になろうと修行中の人達が教える側の指示ではなく
自発的に落ち溢れている者のフォローにあたったり
去年、行を受けた者が下山してしまったものの応援したり
互いに僧を目指す者同士として手を取り合って
前に進もうとしてくれているのだそうです。
ああだ!こうだ!と言い争うこと息め、共に仏道を歩もうとする心。
こんな心を持った若者達が僧侶になった時
きっと、檀家様や御縁のあった多くの方達と共に手を取り合って
人生を頼もしく生き、そして共に極楽に往生することを願ってくれる
良いお坊さんになってくれることと思います。
何故か解らないんですが
忝なさに涙が溢れてきます。
南無阿弥陀仏
義姉〈歳は僕の方が上)を載せて義母の見舞いに。
部屋にいるだけでは退屈するというので車椅子に乗せて
1階の庭を散歩することに。
ベッドから車椅子に移動するだけなのだが呼吸が上がって
はあはあしている。
酸素ボンベの数値を見ると4L/minになっている。
鼻腔カニューレといって鼻の穴にパイプを着けるタイプの
酸素流量としてはかなり高いはずなのだが
坂を登り切ったぐらい息が上がっている。
車椅子に乗って暫くすると落ち着いてきたようだ。
義姉と二人で話している姿を車椅子の後ろから見ていたが
昨日の晴れ渡って心地良い風が吹いている分
第三者的に眺めていると妙に重い空気になる。
昔、羽田先生が往生される三月ほど前に見舞いに行った時も
同じような経験をしたことがある。
その時も、眩しいほどの日差しで、洗濯物も見る間に乾くような爽やかな
風が吹いているのに、なんとも言えない重さを感じた。
こちらにとっては重い空気に感じられるのだが
当の病人にとってはそうでもないらしく
「ああ今日は心地のええ爽やかな天気やねえ。
身も心も爽やかになるわ!」
という義母。
羽田先生も
「こんないい天気は有り難いねえ。今日は朝からお念仏の声にも
元気があるもんねぇ。」
と言っておられた。
ふと思うと、僕や義姉の心を重くさせているのは
その場の空気でも、天気でも病人の表情でもなくて
それが本当なのかどうかも解らない医者によって作られた
余命宣告という無意味な存在のせいかもしれない。

昔、s寺の檀家さんのTさんは医者から余命三日と申告された。
奥さんとお嫁さんがお葬式のことで・・・と相談に来られたのを憶えている。
しかし、その後ありがたいことにTさんの病は奇跡的に回復し
3ヶ月後には家の前でゲートボールの練習をしておられた。
主治医としては赤っ恥も良いところだが、恐らくT家の人達からは
大いに感謝されたことだろう。
そのTさんは、その後4年間元気に過ごされたが
ゲートボールの練習中に躓いて足をやられ、立てなくなった途端に
急激に体力が落ち、三ヶ月後に肺炎をこじらせて亡くなられた。

果たして医者は余命宣告という物をしたくて言ってるのだろうか?
と考えてしまう。
峠で土砂の掃除してる作業員と
「台風の前にこの崖へ携帯落としたみたいでなあ」
と喋っていたら、若いバイトの兄ちゃんが
「あ、これちゃう!」
ゆうて出してくれたんが・・・図星!
「土砂に埋もれてましたわ!」
「ちょっと遅かったなあ。せめて動けばデータだけでも
取れるんやけどなあ」
と、今、家に帰ってダメで元々という気で充電してみたら

なあんと!!!生きとる!!
防水もGショックも付いてへんのに!

明日、docomo行ってデータ取り出して貰って
メーカーへ送り返します。

結局、携帯電話が使いにくくなっただけって感じになりそうです。

何しろ、新しい電話、タッチパネル式なんで
したつもりないのに勝手に動き出しよるんです!
練習しても一向にうまくならないんですが
とにかく筆を持って書いてるのが楽しいし気持ちよい。
それだけです。
これでうまくなれたら申し分ないんやけど・・・
まあ、それはそれとしまして・・・
大きい字を書いてみたら
やっぱり下手でした。
でも気持ちよさは大きかったです。
昨日、新しい携帯が送られて来ました。
なくしやすい人保険みたいなのに入っていたので
ほぼ無償で新しい電話が手に入ります。
ところが前の機種が在庫切れの為、新機種になってます。
指紋確認やら何やらかんやらと
いろんな機能が付いてパワーアップしてるんですが・・・
使い方が解らん!
時計も10時5分に合わせると8時2分と表記される。
何でや?
さらに高校生の参考書ぐらい詳しいマニュアルが付いてるんですが
全く解らん!先ず、字が小さくて見えん!(これは僕のせい)
さらにタッチパネル法式ゆうのになってるんで
気が付いたら画面が勝手に変わってたり・・・
その都度、戻し方が解らなかったり・・・

便利な機能!と書かれてるのに、どう見ても不便な機能です。
複雑なくせに一眼レフのカメラを初めて手にした時ほどの
わくわく感や、構造に対する関心も湧かず
ただただ目の前で最新の知識をひけらかされているような
ストレスを感じます。
何故やろ?
同じ物を見ても視点が違うと全然別の物になります。

「正しいのはAである」
という視点で捉えると正しい物と違う物は
全て間違っているということになりますから
Aでないから「Bは正しくない」という答えが引き出されます。

「Aは正しい」
という視点で捉えると
BはAと異なりますが、必ずしも「Bは正しくない」という答えは
導き出すことは出来ません。

さらに
「Aという要素があれば正しい」となればどうでしょう。

法然上人のお立場は「信心を持って念仏すれば往生する」というのですから
Aでなければ正しくないという狭い受け口ではなく
Aさえあれば大丈夫という大きな慈悲に支えられていると思います。