史学の先生は「法然上人の魅力は、一般民衆の為に救済のレベルを下げて下さったという点にある」
と仰います。
しかし、実際は法然上人が救済のレベルを下げたのではなく
自分自身を愚かな身であると気付き
その自分が救われる為の教えを必死になって求められた。
そして阿弥陀仏の本願に出会い、これしかないと確信されたのであって
飽くまでも自分自身が苦からの解脱をなすことを
先決になさっておられたのだと思います。
そんな自分勝手な・・・と思われるかも知れませんが
たとえ大乗思想にあっても先ずは自分が救われるべき人間であることに
気付かなければ始まらないのだと思います。

国政にせよ被災地復興にせよ
先ず自分がどんな立場に置かれているのかを把握しなければならないと思います。

実家で子供の頃から使っている茶筒があります。
銅で出来ていて赤茶色くなってますが、この茶筒の蓋を閉める時に
プシューっていう感じで蓋が落ちていくのが好きでした。
先月末にふと思いだし、どこにでもあると思ったんですが
なかなか見当たらず、実家に「憶えてないやろなー」と思いつつ
電話してみたら、当たり前のように
「開化堂やがな」
河原町の六条東入った所。

あ、有名な歓楽街やんか。
文化財登録すべきと考えている
現在も尚、江戸文化を残す現役の
遊郭街(ええのか?)。

行ってみると、まあ立派な茶筒が・・・。
もとはうちのもこんなにピカピカやったんやなあ。
面白いのは銅・真鍮・ブリキの三種で
値段がどれでも同じという所。
僕ら素人は、同じ値段なら銅やろ!と思うのだが
四十年使っているというブリキの茶筒の渋いこと!
何ともいえないブラックです。
$坊主、手話を続ける・・・-ブリキ←左から右に古くなっていきます
凝り性の方、見に行ってみたら?
蓋の継ぎ目の部分と筒の継ぎ目の部分を合わせて手を離すと
プッシューッって感じで下りていきます。
なんか和みます。
私は念仏セールスマンです。
変なことを言う人だなあと、ある人の説教を
聞いていたことがありました。
ある時、その人から法然上人の
「弥陀如来の本願の宮仕いと思し召し候べし。」
という言葉のことだと聞きました。
その御法語前編第31に
「もし少しも念仏に心を掛け候はん人をば、いよいよお勧め候べし。」
とありました。
たとえわずかでも念仏に興味を持っている人には
ますます念仏をお勧めしてあげて下さいということです。
そういえば先日、掛かってきた電話のセールスマン、
上手でしたねえ。
こっちが反論すると、まるで全く僕と同じ思いでいるように
自分側の弱点をさらけ出して反省するんです。
そしてこちらの意を汲んだ上で
その意に叶う自分側のメリットを打ち出す。
僕たち坊さんも、自分の正しいと思う気持ちだけを押し付けず
相手の気持ちに立った上でお話ししなければいけないなあと思いました。
「浄土に帰る」という表現は不適当だと言われたお坊さんが
娘を二年前に亡くし、翌年に孫を亡くしたお婆ちゃんが孫の亡骸に向かって
「ほんでもあんた、大好きなお母ちゃんが待ってくれてるお浄土へ
帰るんやで良かったわなあ。」
と涙流しながら語られた」のを見て
「その表現は不適切ですというたら、周りの人から白い目で見られたと言うんです。
現実の話であります。
昨日から携帯が無い・・・・・
今日、携帯会社のサービスでGPS機能を使って
探してもらったら、なんと峠の谷底にあるらしく・・・
必死で探しに行ってみましたが
土砂も崩れているし、突風で杉の木が倒れてくるし・・・
結局、明日、買い換えに行きます。
電話番号、全て解らんようになるし
もう・・・僕の人生、情けなさ過ぎです。
イッポさんのブログを見て思ったことです。

米を手に入れるために田植えをします。
米の苗が伸びて花が咲き稲穂が黄色く育っていく喜び。
米が見事に出来て収穫する喜び。

往生するために念仏を称える。
仏様を思う心が育っていく喜び。
いよいよ往生する喜び。

米が育つ喜びがなければ・・・
収穫する喜びはない。

信仰が育っていく喜びがなければ
往生する喜びがない。

日々に念仏を申し、仏様に見守られ
お育て頂く喜びなしに
死後の往生だけを説かれても
心底喜べない。

生けらば念仏の功積もり死なば浄土に参りなん

という思いがなければ念仏の相続は難しいと思います。
結婚して間無しの頃、兄弟子が往生しました。
享年50才。
7月の31日に家内とお見舞いに行った時、僕と変わらぬほど
大きかった兄弟子が細くなってベッドに横になっておられて・・・
無理して起きてこられて、疲れているのに
家内にくだらぬジョークを言って笑わせてくれていました。

お盆の前で少し心配ですがね、
息子達が頑張って乗り切ってくれるでしょう。
今年は楽をさせていただいて
うまくいったら来年も楽させて頂きましょう(^^)

と笑っておられたが、8月の16日精霊送りをすませて
翌日往生なされました。
あれから年月が経ち、今はその息子さん達と共に
別時念仏の会に参加したり、勉強会をしたりしています。
彼らの姿に時折、ふと兄弟子を感じる時があって
そんな時は「ああ、兄弟子の思いはちゃんと伝わってるなあ」
とうれしくなります。
すごいネーミングなんですが、実際行ってみるとお念仏はほとんど無し。
坊さんの説教を聞く会という感じですが
およそ聞法と呼ぶにはほど遠いです。
その中でお一方、「往生するぞと思い取りて念仏申す」それ以外のものは
全て「邪義」と力を込めて話している、とある本山布教師会長さんがいらっしゃいました。

僕の意見ですが・・・
僕は愚かな凡夫なのですから他人の意見が邪義か正義かなど、およそ判定する力すらありません。
だから最低条件として「往生するぞ」と信じて「念仏」申すことだけは心懸けようと思います。
浄土のみ教えは愚者のための教えですから、愚者が人のことをどうこう言う資格などないのだと思います。
先ほど部内のお寺の奥さんから寺庭婦人会のことで電話がありました。

「和尚さん、バイクでこけたんやて!気ぃつけて下さいよぉ。
もう若こうないんやからぁ!」

あんたも同い年やんかと思いつつ、これを口に出すと後で部内の付き合いに支障が生じるので

「いやいや、油断してました。S寺の奥さんから聞かはったん?」

情報源と言えばそこしかないはず。
しかし電話の用件から考えるとS寺には、まだ電話してそうにもない。
毎回思うんですが、おばちゃん連中はどこから情報仕入れてくるんでしょう。
スパイでも出来るんちゃうかなあ。
韓国料理のレシピから地球環境への思いやりを感じました。
先ず、お米をといで御飯を炊きます。
その際に米を一回目と二回目の水で徹底的にといでしまう。
三回目はさっと流すだけ。(もちろんこの水は植木に遣る)
感心すべきは一回目と二回目の米のとぎ汁を捨てずに取っておくこと。
日本でもこの手法はよく使われていて
小芋や大根を米のとぎ汁で湯がくとあくが抜け色も白く仕上がる。
しかし韓国ではこの取っておいたとぎ汁に砂糖を大さじ二杯ほど加えて煮る。
沸騰したら火を止めあら熱を取る。
その間にきゅうり・にんじん・かぼちゃ・キャベツ・大根などある野菜を塩もみしておく。
あら熱の取れた所にニンニクと生姜を刻んで入れ、塩もみした野菜を入れて
常温に二日程放っておくと水キムチの出来上がりである。
$坊主、手話を続ける・・・-キムチ

さらに驚くのは、この漬け汁に鶏ガラスープや牛肉を茹でた汁等と
醤油等を加えて冷麺のスープにすることである。
スープにしてしまうと言うことはとぎ汁が川や海に流れないということで
実によく考えられていると思います。
ちなみに禅宗の和尚さん達も米のとぎ汁を赤味噌の出汁に使うので
これも同じく優れた知恵だと思います。
8月1日にバイクで転倒。
一月近く、悪戦苦闘していますが・・・
最初、整形外科で見てもらった時
「肋骨にヒビが入ってますが大丈夫ですね」
「太腿は内出血してますが骨折れてませんので大丈夫です。」

咳をしても痛むことを伝えると
「ま、これは仕方ないです。心配しなくても大丈夫です。」

15日くらいから打ち身箇所から黄色い体液のような物が。
慌てて皮膚科に行くと・・・
「検査しましたが、そんなに炎症起こしてないんで大丈夫ですね。」

ねも腫れてずきずきすると訴えたら
「針で突いてみたら血がでてきましたねぇ。膿じゃないので・・・
以前に下肢静脈炎の手術をされてるので再発かもしれないですね。
そちらの病院へ行って下さい。」

翌日、心臓血管外科へ行くと
「あのね、以前に下肢静脈炎で静脈摘出しましたね。」
あ、はい。
「でしょ!静脈ないんですよ。無いのに静脈炎になりませんよね!」
あ、そう・・・ですね
「それにバイク転倒ということは外傷ですよね?」
あ、はい。
「うち、心臓血管外科ですよね?外傷の場合、どこにかかります?
普通、外科でしょ?」
あ、そう・・ですね
「お越しになられた意味が分からない。
外科へ行って下さい!」

どの先生も実に正しいのだと思うんですが
正しければよいという訳でもないというのが
今回、はっきり実感出来ました。