二月は入院で行けずでしたが、今月はお参りの方が多かったです!
グルジアからの女性が日本人の修学旅行生を十人ほど連れて来て下さいました。
本山ガイドも高校生ヴァージョンで(といっても彼らからすれば所詮おやじギャグ)
わーわーと一度に30人超える団体というのは初めてでした。
その後も、ひっきりなしにお越しになられる。以前もお越しになった所謂リピーターも
5,6人いらっしゃいました。
4回ほど案内して、一息ついてふと見ると
賓頭盧尊者(なで仏)の周りに十人超える団体が。
知らぬ顔出来ぬ性分でしていろんな話をして
「去年、十月やったかなあ、この胸の前掛けをめくって胸の辺りを
一生懸命撫でてるご婦人がおられて、話を聞いたら御主人が両方の肺を
移植手術されててね・・・その後、暫くして肺の移植手術にミスがあったとか聞いたんで
心配してるんですが・・・」
としゃべっていたらまさしく御縁か、その奥さんがお礼参りにお越しになってて
「私です!御蔭様で主人は無事、元気になりました!今日は三月ぶりの診察に来てます。
お会い出来てよかったわぁ!本当にありがとうございました。」
とお礼を言われました。
奥さん、お礼は僕と違いますよ!仏様、仏様!

あ、すんません、慌ててました!と笑顔で応えて下さる。
阿弥陀様に見護られての尊い再会、本当に幸せな気分でした。

震災から、はや一年過ぎましたが・・・この活動は、もう東北が完全に元の姿に戻るまで
生きてる間、ずっと続けてやろうと決めたのでした。
NHK連続ドラマ「平清盛」の題字を書いた金澤翔子さんが
「スタジオパークからこんにちは」というトーク番組のゲストとして
出演しておられました。
彼女は一目すれば分かる表情の病「ダウン症」を患われました。
僕の友達もそうでしたが、30年程前には正しい情報が分からず
生まれた時に医師から「歩けない」知能も低く日常生活は困難と
言われたそうです。
今は、こんなこと言うと情報不足と笑われるのだそうで
現役でいろんな仕事についている人も多いのだそうです。
とは言え、正直な所、やはりハンディキャップ分というか
採点は甘いのだろうなあと思っていました。
それにしても髭さんやトキさんのような達筆からすれば
いろいろとご意見もあるかもしれませんが
素直に僕のような書道の先生から「おのれの字の醜さに嘆いている字」
という素晴らしい評価を受けた人間にとっては凄いなあ!と思ってはいました。
しかし、それはハンディを持った人間なのにという一種の偏見であり
「あの人と較べて自分の方が劣っている」という卑下慢だったと思います。
でも、今日、初めて彼女が大きな字で「夢」と書いているのを見た時
あの線がどうとか、ここがこうとかでなく
何か言葉にならない尊い空気が感じられて
気が付いたら訳もなく涙が溢れていました。
本当の書道は理屈など関係ないんだなあ・・・
しみじみそう言っていると看護婦さんから

「権愚さんは言い訳にしたらあかんよ(^_-)

すんません。
精進です。
今日も手作り市の日ですが・・・

いけません。

式衆会のみんなは頑張ってくれてる!

行きたい!けど今行ったら病院からも本山からも
叱られるのは目に見えてるからグッと辛抱して病院で数珠繰りしてます。

けど・・・・・行きたいなぁ・・・あかんか? 

あかん!
病院では便の状態を確認したりする為、便を流さずにナースコールを
する場合がよくあります。
また便器が最新なのでどこで流すのか?とうろたえる人もあるようです。
よく見ると何のことはない、昔同様、便器の後ろに金属のノブが付いていて
ガシャッと下へ下ろすだけなんですが、周りにボタンがごちゃごちゃと
くっついているので一瞬迷ってしまいます。
よく流し忘れる人があるらしく張り紙がしてあります。

「このトイレの流し方 背中のフタの裏ににコックがあります。
必ず流してね! トイレの神様より」

かなり達筆な方が書いておられるようで、筆書きなんですが・・・
書き癖なのか「あります」の「あ」の右上から左下へ流れる線の
縦線と交わるあたりがかすれていて「お」に見えなくもないんです。
今朝、トイレで小用を足しているとおじいさんが「おかしいなぁ」と
つぶやきながらトイレの出口まで行って看護婦さんを見つけて
「ああ、看護婦さん!すまんけど便所の水流して。」と仰ってる。
不思議なこと言わはるなあと思って聞いていると
看護婦さんも「え、流し方が分からんの?」と尋ねておられます。
ところがおじいさん、流し方は分かっているらしく
「いや、分かるんやけど勝手に流したらいかんのやろ?」
「うううん、◎◎さんは入院したとこやから、別に便の確認しなくていいのよ。」
という看護婦さんに
「そやけどなんぼ呼んでもコックさん、おらへんみたいやで。」

なるほど・・・「コックがおります」と読んだんですね。
思わず、便器の外にこぼしそうになりました。
ブログがいくらでも書けそう・・・
斜め向かいの御主人は、腎臓に悪性腫瘍があり術後も
完全に治癒出来ないのでハイパーサーミア温熱療法を試みたいのだけれど
治療費が高く付くので思案しているのだそうです。
すがるしかない思いの苦しみと尊さみたいなことを話し合って
ベッドに戻り横になっていると奥さんがお越しになって
二人でお話しされているのが聞こえてきます。
自分の病に悩みながらも冷静な面持を保ちつつ奥さんに現状を
説明される御主人。
それをお聞きになって、豪気を装い「まあ考えてもしゃあないやん!
まな板に載った鯉やん。病気は先生に、家のことは私にドーンと任しとき!」
と笑顔を振りまく奥さん。
夫婦の情愛とともに、病気に立ち向かおうとする人の思いを感じ
心が熱くなりました。
一時間後、運動ついでに病院の中をうろうろ歩き回っていると
人影もまばらになった二階の外来患者用シートの隅で
携帯を握り、重い声で息子さんに御主人の状況を説明している
奥さんの姿を見かけた時、突然に目頭が熱くなってしまいました。
悲しいのではなく、奥さんの健気な御心が伝わってきたからだと思います。
どうやら涙腺はかなり弱っているようです。
調子が悪く病院に来ています。
同じ病室の人の会話が聞こえてきます。

娘婿のお父さん、亡くならはってなぁ。

そうかぁ、なまんだぶ。

それがなぁ、向こうのお寺さんけったいやねで。

何でな?

あのな、向こうの家は兄さんが守りしてる墓やさかいに
入れささへんし、枕経も檀家と違うさかいゆうて
来てくれはらへんねんて。

ふーん・・・この頃、ちょいちょいそんな話聞くなあ・・・。

ほんまやなあ。

世の中変わったさかいに坊さんも経営規模縮小か?

そのくせ、その分、取る方は倍以上やで。

ほたら、もっと愛想のええお寺はんに変われゆうときぃな。

うん、そうしはるみたい。けど、どこも皆、同じようなもんみたいやで。

そやなぁ。




入る穴があったら入りたい。



京都在住の真宗の和尚さんが書いておられるブログ
にお邪魔するようになったんですが
読ませて頂いて感じるのが、親鸞聖人は法然上人を尊敬されていて
その教えを正しく把握され伝えておられるということです。
もちろん我が鎮西義と相違点が無い訳ではないでしょうが
基盤になる往生を願い念仏申す外にはないという
一心専念弥陀名号の姿勢を貫かれていることがよく分かります。

このブログでは他にも歴史に対する観点など多くのことを
学ばせて頂いてます。
ちなみに管理人様は偉大なる鉄ちゃんでもあり
息子も楽しみにしています。

今一つは
髭和尚のブログ
髭先生から学ぶことは僕のような宗学に縛られてしまっている人間が
忘れてしまっている宗教の必要性、現実的視点の大切さです。
ごちゃごちゃというだけでなくやってみい!
と叱られているような気持ちにさせていただけるのです。
(ちょっと冷静になってみると髭先生こそ文字通り贅言なのですが・・・(^^;))
些細な日常の中で僧侶として見落としがちな所をずばりとつかれる文章表現から
多くのことを学ばせていただいています。

紹介した御二方に共通するのが「写真」!
僕のブログの最も手薄な部分です。
これも学びたいんだけれど・・・・・
トホホです(T_T)

本年も宜しくお願いします。
体調不良や家事、さらに諸事情重なり久方のブログ更新です。
あおやんさんのブログに大晦日の百万遍の様子が写っていました。
その写真を見ると、もの凄い数の人達が除夜にお越し下さっていることになります。
恐らくは吉田神社の初詣と関連するのではないかとは思いますが・・・
それでも、これだけ大勢の方が本山に足をお運び下さる。
日頃の御本山の閑散とした景色からは想像すらつきません。
手作り市の時にも驚くほどの方がお越しになっています。
ある意味でこの本山には人を呼び寄せる条件が整っているのだと思います。
百万遍に関わる人間の努力次第で、活気のある本山になり得るのではないか?
そう感じた次第です。
先月、五重を終えられたお寺の別時念仏にお邪魔しました。
五重の後、受者の思いが少しずつ変わるといいますが・・・
Y上人の熱い思いが檀家様に伝わって
とっても心地良い、文字通り貴賤僧俗老若男女一体となった
有り難いお念仏を申させていただくことが出来ました。
朝のお勤めに来られる方がおられて
月に一度、夜のお念仏があるのですが
来年からは檀家様の思いも取り入れて
月に一回、お昼のお念仏もなされるとのこと。
決して強制しておられないのに
檀家様が喜んでお越しになる。
本当に有り難いことです。
先日、布教師のT先生は講習会で「慈悲の怒りを持て」と話しておられました。
「東北の被害に対して出来る事、義捐金活動や現地でのボランティア等
それらは所詮、ちっぽけな善意である。
僧侶として出来る事、それは亡くなられた方への追善と
慈悲の怒りを以て断固として抗議すべきである。
私は、同じ宗内において邪義を唱える人にも慈悲の怒りで
抗議していく。」
といった内容でした。
慈悲とは抜苦与楽なのだから苦の原因である
誤ったものは廃除しなければと仰るのです。

しかし私は、慈悲の怒りを以て抗議することより
ちっぽけな善意の方がうんと重要だと思っています。
そして我が宗の僧侶がすべきことは、
それはT先生の仰るように亡くなられた方への追善。
そして、生きる希望を失った方々や心の支えが無くなった人、
頼りにする人を亡くされた方々に
生きる為の力、仏様に見護られている喜び、
阿弥陀様の慈悲の優しさを伝えることではないかなあ・・・
と考えています。