五重の初日、二日めだけでしたが
うちの息子と家内のお父さんが贈五重の回向に
塔場を背に担いで礼拝してくれました。
横目でちらっと覗くと息子の眼に涙ボロボロ。
もう僕も耐えきれなくなってしまいました。

家に帰ってから息子に感想を聞いたら
お造りに、山葵どばっとつけて食べてるような感じと
言ってました。
なんじゃそら?と尋ねたら
くーっ!と来るけどそれがたまらんので
また次の日もやってしまうみたいな・・・。
なるほど!
今回、五重の寺院近辺に手頃な食堂がないということで
典座というと恐れ多いが賄い方として行くことになっていたんですが
何故か教授というお役に就かされ・・・
といっても実際には受者係なので、まあまあと思ってたのですが・・・

実は今回、夏に往生した家内のお母さんと、お母さんのお父さん、
二人の塔婆を背中に背負って贈五重の会座に連なっていました。
ですから、受者が受者係。これは、やったらあかんかった!!
回向の度にボロボロ泣けてきてどうしようもありませんでした。
泣くまいと思ってもついホロリ・・・
厳しかったです。
今月も大殿案内に行ってきました。
二十年ほど前に林御前から五重相伝を受けた三河の方の
娘さんがお越しになっていました。

父は、口を開くと五重の時は・・・と懐かしそうにしゃべるんです。
今は脚が悪くなって京都にも来れませんが
私が京都に行くと言ったら百万遍へ行け!
ありがたいとこだぞ と言われてきたんですけど
来て良かったです

と仰ってました。
やはり元祖様の像にお骨が納まっているということ
裏堂の仏様が各本山の心の持ち方によって変わるということ
勢観上人の敵味方を超えた元祖様への思い
勅命を受け、全てを弥陀の護念に任せて念仏申した空円上人
そういった百万遍を支える信仰の歴史が
参拝の方々に感動を与えるのだと思います。
問題は、今、本山に関わっている人間がそれを参拝者に
伝えていないという所に問題があるように思います。
父ちゃん母ちゃん、ごめんなさい
今度、娑婆に出た時は
きっと真面目になりますと
流した涙に嘘はない      
(可愛いスーちゃんの節で)

小学校からの友人に教えて貰った歌。
彼は鑑別所でこの歌を憶えた。
昨日、夜中に電話があって・・・
枕経。

お通夜の後、車まで送ってくれた彼が

お袋の姿は見ても悲しくないけど
お参りに来てくれる人達の姿を見ると
何故かお袋の姿が眼に浮かんで・・・
涙が溢れてくるねん

とつぶやいた後

お母ちゃん、ろくなこと出来んでごめんな

ぼろぼろ涙こぼしてた。
苦労して手に入れた気質の人生。

お母さん喜んだはるよ。
阿弥陀様。
我が身を極楽浄土に導いて下さる仏様であることは勿論なんですが・・・

悲しい時に泣ける
うれしい時に喜べる
悔しい時に腹立てられる
どんな気持ちでいる時も
いつも守ってくれる

そんな仏様であって欲しい・・・です。

苦しい時も・・・・・守ってくれる

阿弥陀様。
29日から11月3日まで百万遍で古書市をやっています。
本離れのせいか手作り市ほどの人は集まりませんが、それでも大勢の方が
御本山にお越しになります。
今日も20人程、大殿の案内をさせていただきました。
九州、滋賀、岡山いろんなところからお見えでした。
一人の女性は普段からよく本山へ脚を運ばれて
阿弥陀堂の前でお食事されているのだとか。

じゃあ、また会えますね?

ええ、間違いなく(^^)だって普段、ここ人が少ないでしょ?
あの雰囲気がまたいいんですよね。

お!僕も同感!
平日の百万遍、天気の日なんかなんともいえずのんびりします。
気付いてなかったことに気付きました。
僕は今年、五十二才です。
人生も半ばと思っていましたが半分以上過ぎていた。
死の足音が微かに聞こえる年齢になっているのです。
自分の生涯を垣間見たような気持ちになっています。

あ~、俺の生涯はこんなものなのだなあ

そんな気分になっています。
どうせ、またすぐに忘れてしまうのでしょうが・・・。
前の記事から続きになってしまいますが、さらに竜生九子のことを読んでいる内に
狻猊(サンゲイと読むらしい)というのがおりました。
これも竜の子なんですが、獅子に似ていて煙火に親しむそうです。
香炉の脚の部分に用いられているそうです。
すぐ本堂に行ってみましたが、うちのは寛通型なので確認出来てませんが
そう言われるとごっつい香炉の脚に獅子の顔みたいなのが付いてたような・・・。
寺の香炉の脚に狻猊が使われたことから高僧のいる場所を猊座下或いは狻座下と
いうらしいです。
細かいことを言えば猊座は金猊の脚、狻座が狻猊の脚をした香炉だという説もある
みたいなことが書かれています。
どうも九子全員が道具等の部品として使われているようです。
でも考えたら香炉の上に座しておられる訳ではないでしょうにねえ。
昨日、友達と龍について話をしていました。
龍が持つ九つの特徴、九似①角=鹿②頭=駱駝③目=鬼④耳=牛⑤胴=蛇
⑥爪=鷹⑦掌=虎⑧腹=蜃⑨鱗=鯉について確認しようと本を読んでいたら
竜生九子という単語が眼につきました。
竜から生まれた九つの動物、その中に贔屓という動物がいます。
「依怙贔屓」の贔屓です。
亀によく似た動物で重い物を担ぐのが好きな動物だそうです。
亀が背中に棹石を背負った形のお墓をご覧になったことありませんか?
石柱とかの台座になっていることも多いのだそうです。
土台になっている亀=贔屓を引っ張りすぎると
「贔屓の引き倒し」になってしまうという所から贔屓を
特定の人への支援、引き立てを指すようになったのだそうです。
えこひいきとよく言いますが依怙とはあるものに頼ることなのだそうです。
ということは依怙贔屓の本来の意味は、土台を支えてくれている人に
頼っていくこととなります。
そう考えると依怙贔屓大いに結構ということになるのでしょうか(^^;)
仏教の考え方に「事」と「理」に分けて見る考えがあります。
ものごとの真理は常に一つです。その唯一無二の真実を「理」といいます。
一方、現実に則してものごとを考える時にはその状況に応じて
その場その場に適した個別の表し方が必要になります。
それを「事」といいます。
ですからお釈迦様のお説きになった教えはたった一つの真実「理」によって
成り立っていますが、その教えを受け止める人々の能力機根に応じて
八万四千の法門「事」が存在する訳です。
浄土の教えに「指方立相」というのがあります。
我々凡夫の機根を鑑みて、指で西の方角を示し「あそこに極楽浄土がある」と
分かり易く説明して下さったもので
阿弥陀仏とその国土や荘厳を具現化したものです。
我々は迷いの世界から西方極楽国へ往き生まれるのだという
考え方の基盤になっているものです。
法然上人は我々凡夫のために事の浄土だけしかお説きになりませんでした。
しかし、それは決して理の浄土を否定するということではなく
飽くまでも差し置かれたのです。
善導大師のお説には自性清浄なる私達が外からの影響によって迷いの世界に
彷徨っているけれども、本来の姿は清らかなものであり
阿弥陀仏の本願力によって、その本来の姿に戻るべきであることが
きちんと記されています。
無論、私達凡夫にとってみれば謀りようもないことですから
私達にとっては法然上人がお示し下さったように具現化された浄土だけを
信じていくよりありません。
かといって善導大師がお説き下さっている真理の世界を否定することは
あってはならぬと思います。
提案として
真理の姿に気付かれた方、即ち既に往生なされた方については
自性清浄のお姿になられたのですから「帰る」を認め
具現化しなければ解らぬ者、即ち娑婆に残りし者が
「帰ろう」ということを使わず「往こう」と表記すべきであると
定めては如何でしょうか?
皆様のご意見をお聞かせ下さい。