7月のシカゴ取材のゲラを見た時に、感動した。

建築家・高山正實氏の人生をたかだか数ページの誌面で

表現しきれるはずはないが、

海外を目指す者、

建築家を目指す者に勇気を与えてくれる内容である。

これが、発行部数80万部程度の読者だけの目に触れるのではもったいない。

10年後には、我が息子にも読ませたい。

だから、原稿の全文を掲載することにした。

これによって、ひとりでも多くの人の目にとまり、

活力となって欲しいのである。



※著者が忙しくて、訂正した最終稿をテキストデータ化できないと言うので、

ページデザインのPDFからテキストを抜き出して、再編成した。

縦書き文字を横書きにしたり、字詰めも変更しているので、脱字などがあったら、

ご指摘いただきたい。


建築家

山正實

Otona no Omamagoto
摩天楼に彩られた大都市・シカゴで

先達が手掛けた近代建築の遺産を守り続ける日本人がいる。

「建築は文明を推進する力から生まれるもの」

巨匠、ミース・ファン・デル・ローエに師事した男は、

時代に流されることなく、その真髄を追求し続けている。

Otona no Omamagoto








髙山正實 Masami Takayama

1933年東京生まれ。早稲田大学を経て、

ペパダイン大学卒業。1959年イリノイ

工科大学大学院建築学科修士課程修了。

ミース・ファン・デル・ローエに師事。

1967年よりシカゴSOM建築事務所で

主任建築家として超高層建築の設計に

従事。1975年論文「建築に表現された西

欧及び日本の文化的価値観」で博士号

取得。イリノイ工科大学、ハーバード大

学で教鞭をとる。1993年シカゴ建築研

究所を設立。


「私はベルリンに蔵書を3000冊残してきた。

後でそのうちの300冊を送ってもらったのだが、整理してみると、私がとっておきたいと思った本は30冊しかなかった。

しかし、それを君たちに教えるわけにはいかない。

君たちは自分で自分の30冊を探さなければならない。

そうしなければ勉強する意味がない」

 門生たちを前にして、ミース・ファン・デル・ローエはゆっくりと語った。

偉大な建築家の講義を受けることで、他では得られない建築の極意を教えてもらえるはずだと期待を寄せていた者たちは、少なからず落胆の色を見せていた。

しかし、その中でひとり、目を輝かせている髙山がいた。

「ミースから教わった最も大切なことは『勉強は自分でする』ということでした。それは教師や本から受け身で学ぶのではなく、自ら考え、自ら行動するということなのです」

 ミースは1938年から1958年までイリノイ工科大学建築学科長として教鞭をとっていた。

その最後の一年に、髙山は大学院で師事することができたのだ。

「大学院の合格通知を開けるとミースのサインがあり、とても感激したのを覚えています。

彼は71歳になっていたので、すでに教壇からは退いていると思っていましたが、直接教わることができたのでとても幸運でした」


Otona no Omamagoto

  ミースは常にこう唱えていた。

「建築は文明と結びついている」

1871年の大火で焼け尽くされたシカゴの街は、その再生においていちはやく高層建築を取り入れた。

時代はちょうど資本主義経済の成長期にさしかかり、オフィスビルの需要が高まっていたからだ。

シカゴの建築家たちは、その「高さ」をさらに追求し、高層建築に「光」を取り入れるというかつてない発想を、鉄骨とガラスという新しい資材を用いることによって可能にした。

シカゴは一躍、世界を主導する近代都市を形成したのである。 

「建築は、社会を動かしている力を表現したものです。

そして、その建築が集まることによって環境が作られます。

だから私は建築家として、納得のいく環境に身をおいていたいと考えてきました。仕事の上でも、生きる上でもそれがとても重要なことだと思っているからです」

Otona no Omamagoto

 シカゴの街には、時代を映し出す建築が溢れている。

歴史と未来が共存するこの街は、建築家・髙山の本能を常に刺激し続けてきた。

 髙山が建築を学ぶために渡米したのは、今から55年前に遡る。
Otona no Omamagoto それまでは早稲田大学建築学科に在籍していたが、学業よりも部活動のオーケストラに熱中し、バイオリンを抱えて演奏行脚の日々を送っていた。

「まだ戦後まもない時期でしたので、我々のような学生の演奏でも、観客はとても喜んでくれました。

音楽を安心して聴けるということが、平和の訪れを実感できることだったからだと思います。

涙を流して喜んでくれる方もいたので、その気持ちに応えたいとオーケストラ優先の生活になっていました」

Otona no Omamagoto
 だがそんな髙山にも転機が訪れる。

考現学の第一人者・今和次郎(こんわじろう)教授の授業が、髙山の中に〝本格的に建築を勉強したい〟という強い気持ちを芽生えさせたのだ。

「今先生は、チョークで同じ大きさの長方形を黒板の端から端まで描き並べ、『これが現代の美学だ』とニッコリ微笑みました。

それを見て、頭をガツンと殴られたような衝撃を受けたことを今でも鮮明に覚えています」

 今教授が示した長方形は、窓を表していた。

それがすべて同じ大きさ、同じ形で並んでいるということは、すなわち現代の特徴が「均一性」で表現されることを示唆していた。

「窓の置き方ひとつで美学が変わる、建築で時代を表現することができる」

建築に秘められた力に感銘を受けた髙山は、あと半年で卒業だったにもかかわらず、近代建築の本場アメリカで勉強したいと海を渡った。

「アメリカの人々は隣同士にいたとしても、別々に生きる感覚を持っている」

 これが、初めて足を踏み入れた大国、アメリカで髙山が感じたことだった。

多国籍の人間が集まる国では、日本のようにひとつの意見に同調することは求められないが、そのかわりに個々人で確固たる信念を持つことが必要とされた。

一見冷たいように思えるアメリカ社会に最初は戸惑った髙山だったが、自分をしっかりと持っていれば、どこへ行っても周囲に迎合することなく生きていけるという自信が持てるようになると、その空気が次第に心地良いものへと変化していった。


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 しかし髙山がアメリカに来た当初は、まだ日本が敗戦国であるしこりが根強く残っていたため、「日本にエレベーターはないだろう」と馬鹿にされたり、「仕事をするならアメリカ人の名前に変えるべきだ」と強要されるなど、悔しい思いをする日々が続いた。

その度に髙山は、「日本人として卑屈になることなくこの国で勝負したい」と静かに闘志を掻き立てていた。


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建築家・高山正實【後編     へ続く・・・



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文=水崎彰子

撮影=高山浩数


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