大学受験、高校受験も終わり、少し時間と気持ちにゆとりが出来ました。
来年度に向けた準備を今のうちに着々と進めております。
家庭教師というのは、子どもに勉強を「教える」仕事、と理解されています。
教えることは、確かに大切なことであり、必要な場合もありますが、その弊害もあります。
それは、学習がひどくつまらなくなることです。
私があまりにも教えてしまうと、子どもは私が伝えた方法論をただなぞるだけで、
自分自身で何も考えなくなります。
これをやった後は、次にこうして、その後はこうすれば答えが出る。
このような方法論をなぞることを繰り返して何が楽しいでしょうか?
これは単なる反復作業であり、そのプロセスからは「考えること」がスッポリと抜け落ちています。
私は人間の頭の使い方には、三つのレベルがあると考えています。
それは、覚える、理解する、考える、です。
右に行くほど高度な頭の使い方になります。
学校教育批判をするつもりはないのですが、
日本の学校は一斉指導というその授業形態故に、
どうしても子ども自身が考える時間が少なくなりがちです。
人から教わったことを覚えることも、理解することも、それほど大きな喜びはありません。
苦痛を伴うことさえあります。
しかし、覚えたこと、理解したことに基づいて、脳内で様々な仮説を走らせ、検証すること、
つまり考えることには大きな喜びがあります。
この心の躍動があるからこそ、学ぶことが楽しくなるわけです。
つまり「教える」には、子どもからこの喜びを奪ってしまう、という弊害があるのです。
初めに書いたように、私は決して教えることのすべてを否定するわけではありません。
先程述べた頭の使い方の3種類を思い出してください。
最も高度な「考える」を下支えしているのは、覚えたこと、であり、理解したこと、です。
これらの下地があって人は初めて考えることが可能になります。
そしてそれらの多くは、教えることで身につけるものです。
だから教えることも大切な仕事ではあるわけです。
しかし、それだけでは学習が苦痛になりかねない、ということを申し上げています。
それではどうすれば、子どもたちを考えさせることができるのでしょうか?
長くなりましたので次回に続きます。