前回の記事では、人は社会内存在であると同時に宇宙内存在である、と綴りました。
しかし今私たちは、社会の外側の世界を感じ取り辛い時代を生きています。
今日はその続きです。
例えば私たちが毎日食べている食材。
肉でも魚でも米でも野菜でも、私を含め多くの人は、自分でそれを獲ったり、育てたりすることをせず、
スーパーにお金を持って行き、そこでそれらを調達してきます。
スーパーマーケットでの金銭とモノの等価交換。
流通、市場、貨幣、交換。
これらはすべて人間が作り出した社会というシステム内の営みです。
私の親世代の人たちに聞くと、昔の田舎ではどの家も田んぼで米を作り、畑で野菜を作り、川に遡上してくる魚を獲ったり、
そんなことを当たり前に行っていたのだそうです。
農産物の出来不出来、漁獲高の高低は、人間社会のシステム外の要因に大きく依存します。
つまり食料調達活動を通じて、数十年前の農村部の日本人はまだ社会の外部とつながっていたわけです。
私は昔を過度に理想化して「あの頃に帰ろう」などと言うためにこんな話をしているのではありません。
昔と比べて今という時代は、社会の内部でほぼすべての活動が完結し、
その外部を感じにくい時代である、ということが言いたいのです。
そのような社会で生きていると、社会を覆う価値観がその中で暮らす人間に過度に内面化され、
その物差しに依ってしか物事の可否善悪を判断できなくなります。
子どもというのは、生きてきた時間が短いので、大人ほどには社会の価値観に染まり切っていない存在です。
先日ご紹介した高垣先生の言葉を借りれば、子どもは社会内存在より宇宙内存在に近いと言えます。
だから社会のルールに過剰適応している(してしまっている?)私たち大人は、
まだそのルールを深く内面化していない子どもの振舞いに対して、自分とのズレを感じ、
時にひどく不寛容な態度をとってしまうのではないでしょうか。
私はもちろん子どもの振舞い全てを受け容れて良い、などと言うつもりはありません。
自分を害すること、他者を害すること、法を侵すこと、
これらを行なっている場合は、その子のためにも絶対に止めてあげなければいけません。
ただ、それ以外のことに関して、大人はもっと寛容であってよいのではないか、と私は考えます。
なぜならば、私たち大人を強く縛る社会の価値観、
これは、国が変われば、時代が変われば簡単に移り変わってしまう、その程度のものだからです。
決して金科玉条の如く絶対視するようなものではないのです。
例えば義務教育について考えてみたいと思います。
今、学校に行かず家にいる子どもたちは、不登校や引きこもりというマイナスのラベルを貼られその存在を問題視されていますが、
明治19年に学校令が公布され小学校が義務教育になった時、子どもたちが学校に行くことの方が社会から問題視されていたのです。
なぜなら6歳を超えた子どもというのは、当時の家庭、とりわけ農家にとっては欠くことのできない貴重な労働力だったからです。
その貴重な労働力を奪われてなるものかと、農村部では小学校廃止を求めて一揆が起きたほどでした。
義務教育一つ取っても百数十年の間に、それに対する社会の価値観は180度変わったわけです。
このように、社会の価値観は決して絶対普遍なものではなく、時代で、国で、様々に変化するものなのです。
もちろん社会で生きる以上、その価値観に従うことはある程度大切です。
しかし、それを絶対視するのではなく、一歩引いた目で見つめることもまた大切です。
社会の中で生きつつも、それに埋没することなく、一歩退いた視点を持つことが出来るなら、
子どもたちが社会の価値観に適応していようがしていまいが、
そのことに一喜一憂することなく、おおらかな気持ちで子どもを見守ることが出来るのではないでしょうか。
そしてその穏やかに見守ってもらった時間が、子どもたちの中に安心感を生み、
「何かあっても戻れる場所」として機能するからこそ、
子どもは大人の手を払い除けて、自分の世界に一歩を踏み出していけるのだと思います。
社会を覆う価値観は川の流れのように移り変わるもの。
その程度のものであるという認識を持ち、それとは別の視点から、子どもの存在を祝福する。
そういうアイディアが今私たち大人に欠けているのではないでしょうか?