昨日のブログで、なぜ人の話が聴けないか?
それはその人自身が人から話を聴いてもらっていないから、という話を綴りました。
人は聴いてもらうことで心の中に余裕が出来、その出来た余裕の分だけ人の話を聴けるようになる。
だからもし今、人の話を聴けないなら、それはまずご自身が誰かに話を聴いてもらう必要があるのかもしれない。
そのようなお話を綴りました。
私たちは日々、自分以外の他者と言葉を交わしあいながら生きています。
そもそもなぜ人は言葉を交わしあうのでしょうか?
以前本を読む中でこの問いに出会ったときに、
私は知るべきを知り、伝えるべきを伝えるため、と考えました。
私たちは日々生きる中で、知らなければならないこと、伝えなければならないことが沢山あります。
例えば仕事で、明日の何時にどこに何を持って集合せねばならないか、を知る必要がある。
例えば買い物で、どんな大きさ、どんな色合い、どんな手触り、どんな値段帯のものが欲しいか、を伝える必要がある。
その必要性を満たすために、私たちは日々言葉を交わしあう。
私はそう思っていました。
それでは、なぜ私たちは日々挨拶を交わすのでしょうか?
「おはようございます。」
「こんにちは。」
日々交わされる挨拶の中には、知るべき情報も、伝えるべき情報もありません。
何の有意な情報も含まれていません。
それでも私たちは日々、挨拶という言葉を交わし合いながら生きています。
この反例から分かるのは、コミュニケーションの目的が、知るべきを知り、伝えるべきを伝えるためではないということです。
それではコミュニケーションの目的とは何でしょうか?
何だと思われますか?
挨拶という習慣が私たちに教えてくれるもの。
それは、コミュニケーションの目的はコミュニケーションそれ自体であるということです。
つまり、私たちは知るべきを知るために、伝えるべきを伝えるために、コミュニケーションをするのではなく、
他者と言葉を交わしあうためにコミュニケーションをとるということです。
自分の発する言葉を受け止めてくれる他者が確かにこの世に存在する、その事実を確認するために私たちは日々言葉を交わしあうのです。
だからこそ、無視というものには深く人を傷つける力があるのだと思います。
好むと好まざるに関わらず、私たちは日々資本主義という大きなシステムの中で生きています。
そこで刷り込まれる価値観は、平たく言ってしまえば、「金になることには意味があり、金にならないことには意味はない」というものです。
そういう価値観の蔓延が、
コミュニケーションの目的とは、伝えるべきを伝え、知るべきを知るためと、誤認させ、
そこに内在する意味性などに意味はなく、本当の意味とは、言葉を交わしあうことそれ自体なのだということを、
私たちから忘れてさせてしまうのでしょう。
そして、この「意味」がないものには意味がないという私たち大人が握りしめてしまった無味乾燥な価値観こそが、
誰にも話を聴いてもらえず、心の中に寂しさを抱えた子どもを、生きづらさを抱え苦しむ大人を、生み出しているのではないか。
私にはそんな風に思えてなりません。
続きます。