前回のブログで関心の矢印という話を綴りました。
「あなたのためを思って」
「それくらい自分で」
いずれの言葉も、相手のためを思っている言葉のようではありますが、その実、本当に考えているのは、相手のことではなく自分のこと。
つまり関心の矢印が相手ではなく、自分の方を向いている言葉。
そんなことはないでしょうか?
精神科医の泉谷閑示さんは、その著書「普通がいいという病」の中で愛と欲望を以下のように定義しています。
愛:相手が相手らしく幸せになることを喜ぶ気持ち
欲望:相手がこちらの思い通りになることを強要する気持ち
「あなたのためを思って」という言葉には、親切を装いつつも相手を自分の希望とおりに変えようとする気持ちが。
「それくらい自分で」という言葉には、相手の自立を促しているように見せかけて、やはり相手を自分の思い通りに変えようとする気持ちが。
つまり、相手をこちらの思い通りしたいという欲望があるのではないでしょうか?
子どもたちは、その関心の矢印が自分の方を向いていない言葉に寂しさを覚えますが、お父さん、お母さんを困らせたくないから、その気持ちは心の中に抑圧されます。
我慢して我慢して、その我慢が限界になったとき、それが問題行動として発露するのではないでしょうか。
それでは「欲望」ではなく、「愛」とはなんでしょうか?
「愛」の定義は、相手が相手らしく幸せになることを喜ぶ気持ち、でした。
「相手が相手らしく」に気づくためには、相手に関心を持つ必要があります。
関心の矢印を相手に向ける必要があるということです。
例えば、この子はどんな遊びが好きか、どんな食べ物が好きか、今日の顔色はどうか、声のトーンがいつもと違わないか、目の表情はイキイキとしているか、など。
つまり、相手を分かりきることなどできない、自分とは異なる他者として尊重し、関心を持つこと、分かろうとすることから、「愛」は始まるのだと私は考えます。
続きます。