たいして体を酷使したわけでもないのに
一生懸命考え事をしていたわけでもないのに
やたらめたらと疲弊する
そんな経験はありませんか?
そういう場合たいてい
「こんな事してなんか意味あんのかなぁ?」
という疑問を抱いてやっていた
そんな場合が多いように感じます
無意味と感じることをやっていると
人は疲弊するものなのではないでしょうか
子どもたちが勉強するのを嫌がるのも
きっとそれが原因だろうと感じます
=学校教育の意味を見出せない理由=
日本の多くの大人が感じていること
それは、、、
「学校で習ったことなんて大人になったら使わない」
学校教育は無意味
それを大人が言っていれば
子どもは学ぶことに意味はない
そう感じるのも当然の帰結だろうと思います
学校教育に意味を見出せないのは
学校教育というシステムが素晴らしいからです
そう言ったらどう思われますか?
理由はこうです
学校教育の意味を見出せないのは
それを受ける機会を持てなかった人に出会うことが難しいから
赤を認識するためには赤以外の色を必要とするように
学校教育の意味を認識するためには
学校教育を受けずに育った人が必要です
そういう人に会ったことがある人はきっと少ないと思います
それは学校教育というシステムが万人に等しく教育の機会を提供する
素晴らしいシステムだからです
学校教育というシステムが素晴らしいが故に
学校教育の意味を見出すことが難しい
そういうことなのではないでしょうか?
=「学校教育は洗脳」という洗脳=
近頃よく聞くフレーズ
「学校教育は洗脳」
集団を恣意的にある方向に導くために、学校教育はなされている
時代の転換点にある今
何かと閉塞感に満ち満ちていて
このやりきれなさを誰かのせいにせずにはいられない
そういう他責的な文脈から生まれたのが
「学校教育は洗脳」というキャッチーなフレーズなのかもしれません
そういう人は果たして考えたことがあるのでしょうか?
学校で教育がなされなければ
読み書きはできない、計算はできない
そんな無知な人間を大量に生み出すほうが
よっぽど洗脳しやすいんじゃないですか?
そしてもう一つ
「学校教育は洗脳」という批判を展開するときの
その言葉を、その論法を
あなたは一体どこで誰から教えてもらったのですか?
=世界は言葉によって分節されている=
新しい言葉を得ることで
今までのっぺりとした一塊に見えていたものが
細かく割れて見えてくる
新しい言葉を得ることで、世界の解像度は増していく
例えば「笑う」という言葉
笑う=楽しい
という意味付けのみで生きてきた人が
鼻で笑う=嘲り
ほくそ笑む=企て
という言葉を得ることで
今までのっぺりとした一塊に見えていた「笑う」という概念が
愉悦、嘲り、企て、と三つに細かく割れてくるわけです
言葉を得ることで世界が細かく割れてゆき
今までと同じ景色を見ていても
何百倍も何千倍も色彩豊かな世界を味わえるようになる
世界は言葉によって文節されている
これが私が考える国語を学ぶ意味です
私の周りには
いろんな制約があるにも関わらず
どうすれば子どもたちにもっと良いパスが送れるだろうかと
日々試行錯誤されている先生がたくさんいます
そして私は子どものころ
学校で素晴らしい先生と出会い
学ぶことの楽しさに気づくきっかけを頂きました
だから
「学校教育は洗脳」などと言われると
悔しい気持ちでいっぱいになるのです
子どもたちに学ぶことの意味を示すためには
まず教える人間がその意味を理解していなければいけません
自分の脳内整理の意味も込めて
次回以降、認識しづらい学ぶことの意味を
脳みそフル回転で言語化していこうと思います