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悟りへの道

今にある 
-笑う門には福来る、有難いことに気づく人は幸せである、後悔より未来へ1歩、いいんだよ-
仕事、本、感じたこと、学び、今は、悟り的考え、等いろいろ書いています。

「老子」は

釈迦、キリストと並べられ

悟った人と言われている。

 

おもしろい動画をみつけた。

 

 

 

 

 

 

ある男子学生が

”学歴こそ全て”  

 

という価値観を持ち

一流高校、良い大学に進んできた。

 

そして、就職活動で挫折。

老子の言葉で、大泣きをする。

 

そして・・・。

 

 

 

 

 

 

その時、

老子に言われた言葉、

 

「・・・

 

自分は〇〇において優れた人間だ。

私は〇〇な人と思われるべきだ。

 

こういった執着があるせいで

かえってそういった望ましいものを失う。

 

・・・

 

バカにされたくないのか?

なぜ、バカにされたくないんだ?

 

自分は、バカではなく、

賢い人間でなければならない。

 

みんなから

賢いと思われなければならない、

という執着があるからではないのか?

 

その執着はどこからきたんだ?

なぜそれを求めなければならないんだ?

その執着はお前の人生を良くしたのか?

 

・・・」

 

 

 

 

 

 

 

昨日ちょうど

自分がもっていた執着に気づき、

それをブログに書いた。

 

●多くの事ができることが大事、

 出来ないと人に認められなくなる、

 という執着

 

●自分だけよい思いをしてはいけない、

 だからいつも親切しないといけない(自己犠牲しても)、

 という執着

 

 

 

 

 

 

たまたまおススメに出てきた動画だったが、

自分の執着について気づき、

ブログに書いたばかりだったので、

なんて偶然なんだろう、と思った。

 

 

最後、主人公がワンワン泣いていた。

 

私も昨日、

こんな執着があったのか、

 

と結構、はっ!とするような

大きな気づきだった。

 

 

 

 

 

 

そう、

人の裏には、ほとんどの人は自覚していないが、

モノサシ、思い込みによる「執着」がある。

 

自己の価値観ぐらいに思い、

自分と一体化していると思っているので、

自分のその思い込みの「執着」に気づけない。

 

・何でこう自分は思うのか?

・そうか・・・自分はこういう思い込みをもっているんだ

・さて、それは本当にそうだろうか

・いつから、そう思うようになったのか

・なぜ、そう思うようになったのか

・あぁ、こんな風に考えて、この考えをもったんだ

・・・

 

と自分に

 

問うて問うて・・・問うて考察していく。

 

 

 

たいてい、

その問いの前には

苦がある。

 

その考えでよくなっていない自分がいて

不満や苦しさがある。

だから気になっている。

 

 

 

 

 

最初から見ると

以外と長い動画だったが、

 

学歴重視男子学生くんが、

どういう思考でいきてきたか

が手に取るようにわかって面白かった。

 

そして最後は、一皮むけた学生くんだった。

 

 

 

 

 

 

生きとし生けるものすべてが

幸せでありますように。

~ ありがとう ~

 

 

 

 

 

瞑想や座禅が

流行っているほどではないが

 

微増だが人々が

関心をもったり

生活に取り入れられつつある

と思っている。

 

 

 

 

瞑想するだけでも

心が落ち着き

良い効果があるとは思う。

 

 

 

 

ただ、

だから悟るとは直結していないらしい。

 

 

 

 

 

スマナサーラ長老が

おっしゃっていたが

 

唯一

悟りにつながる瞑想が

 

「ヴィパッサナー瞑想」

 

だという。

 

 

 

 

 

「ヴィパッサナー瞑想」

自体にも種類が何種類かある。

 

体の動きをみる

「ヴィパッサナー瞑想」も

あるようだが、

 

 

 

 

私は、

 

自己流に勝手にアレンジして

(本当はダメかもしれないが・・・)

 

思考もみつつ、

 

最近

体の動きもよく見るようになった。

 

 

 

 

そして

 

思考も出なくして

or

出ても相手にせず

 

体の動きだけ見張っていて

感じたことがある。

 

 

 

 

自分で考えて

動いているようだが、

 

 

 

 

何も考えないようにしても

つまり

思考をほぼゼロにしても

 

体が勝手に動いている

感覚があった。

 

 

 

 

 

次に何をするのかなぁと

見ていると

 

何かしだす自分がいる。

 

 

 

 

 

それも絶妙に

体の各部位が動いてくれていた。

 

 

 

見ていると、

右手

左手

右足

左足

腹筋

背中

など・・・

 

ちょうどよい角度や強さやタイミングで

つかんだり、

まげたり、

支えたり、

あげたり、

さげたり、

・・・

 

している動きがあった。

 

 

 

 

 

思考と感情も見張り続けているが、

体の動きも見張るようにすると、

 

さらに

思考にまきこまれず

引いた視点で

 

自分の思考・感情も

自分の体も

世の中も

 

より見ることができるように

なりつつある気がした。

 

 

 

 

 

また

落ち着いた眼で

それらを見つつ

 

目の前のことと

目の前の人に

ベストをつくして

 

自然と一体になりながら

リラックスして

 

成長していけたらと思う。

 

 

 

 

 

私、みなさん、全ての生きとし生けるものが

さらに幸せでありますように。

 

 

 

 

 

~ありがとう~

 

 

 

 

 

本『女性のための修身教授録』で森信三先生は

おしゃべりを慎むよう言われていた。

 

会話をしているグループの中で

一番口数が少ない人間になるべきだという。

 

森先生のこの本は、

女性全員に読んで欲しいぐらい

身が引き締まる思いになる。

 

私自身、おしゃべりに気を付けているが、

調子に乗って話すこともしばしば。

 

 

 

 

 

 

 

しかし、

「沈黙は金」を実践することで、

 

損することは決してないと思う。

 

 

 

 

 

 

ただ実際は

”おしゃべり”がいいことのように

扱われている傾向が

この世にあるように思う。

 

コミュニケーションとしては

ある程度必要だとは思うが、

 

しゃべっていないと

 

損しているような

快楽がえられないような

暗いと思われるような

ノリが悪いような

おしゃべりする仲間との時間が

非常に楽しいという”概念”をもっているような

 

思い込みが今の社会にある気がする。

 

 

 

 

 

おしゃべりしすぎると

思考を見つめられない、

 

いや、

 

思考をみつめていないから

おしゃべりしているのかもしれない。

 

結局、自分の外にでてしまっている。

 

 

 

 

 

 

 

思考が見つめられるようになり

少し真理に気づきだしてきた時に

 

おしゃべりは本当に大事なのか?

 

と、思っていたことがある。

 

 

 

 

 

たいていの「おしゃべり」は、

お互いの全く違うモノサシで測ったことを

陳列し合いになる。

 

それが

各人モノサシが違う、からそれを学ぼうという視点や

己のモノサシが正しい、という狭い視野を広げるためや

時間を共有し相手の喜怒哀楽に少し共感する、ための時間

 

というように思っていないと

 

他者との会話の後に

苦、反発、批判、怒り、嫉妬等がでる原因になる。

 

 

 

 

 

かつ、

情報交換でない

 

長時間におよんだあとの

多くの「おしゃべり」は、

 

過去の苦について話したり、

未来の不安について話したり、

人に対するうわさ話での批判や優越など

 

たいてい

思考にまきこまれている状態だと思う。

 

 

 

 

自分の思考を見れるようになったが、

最近、人の思考も見て取れるようになった。

 

 

例えば身内と話していて

 

身内が

貪瞋痴に基づいた思考に巻き込まれまくっており

 

自分のモノサシだけで

自分は正しいという視点だけで

 

会話してくるのが

よく見えるようになった。

 

 

たいてい

思い込み

愚痴・批判

いらぬ不安

そのどれかをぐるぐるしている。

 

 

それに対してこちらが

もっと上の抽象度で物事をみてしまうので

見えないところを指摘したり

一緒になって巻き込まれたりしないので

 

 

以前のように

一緒に不安になって会話したり

一緒に愚痴や不満を共感したり

 

できなくなってきた。

 

あえて

こちらが抽象度を下げて合わせて

共感して対応する

努力が必要になってきた。

 

 

 

 

 

お釈迦様は、

多くの人々の相談にものっていたという。

 

真理を悟っていない人に対応していたということは

みなさんに分かる言葉で

 

抽象度をあげたり下げたり

理解しやすい例えばなしをしながら

お話されていたのだと思う。

 

 

 

 

 

自分が見え方が変わってきたが

口数は少なくしつつ

 

お釈迦様のように

人々が楽になったり楽しくなったりするよう

分かる言葉で合わせたり時には抽象度を上げたりしながら

 

話ができるようにしていく務めも必要だなと思った。

 

 

 

 

 

 

また精進していきたい。

そう思えることに感謝。

 

 

 

 

私、みなさま、生きとし生けるもの全てが

幸せでありますよう。

 

 

 

 

~ありがとうありがとうありがとう~

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

前回書いたブログ。

 

挨拶に返事がなかったことは、

失礼とかヒドイとか悲しいとかでなく、

 

思い通りにしたい、

 

という思いが満たされないことが

不満や苦を感じる原因の1つ

 

と考察した。

 

 

 

 

 

自分には価値がある

自分は大事にされるべき、

ということがおかされた

 

というのも原因ではあると思う。

 

しかし、

これも

ある意味、思い通りにしたい、ということになるのではないかと思っている。

 

 

 

 

 

ふと、気づいたこと。

 

 

 

 

他人に対してだと

普段自分でイメージしている自分とは違い

自分の立ち振る舞いを変える傾向がある。

 

その自分さえもいないのに、

「自分」を変えてまで

他人と接する「自分」もおかしい話だが。

 

他人には違う顔になるとは、

誰しもそういう傾向はあると思うが、

 

他人にはテンション高く笑顔をつくるべき

と思っている自分がいるなぁと気が付いた。

 

 

 

 

他人に接するときは

自分の中におらず

思考も見つめられていない状態になりがち

だとも思った。

 

 

 

 

そういう自分が考えた

「いい人」(←これも実はあやしい。

今までの人生で創ってきた自分のいい人像でしかない)

をするべきだと思っている自分にも気が付いた。

 

 

 

 

 

果たして、本当だろうか?

そうする必要はあるのだろうか?

 

 

 

 

 

テンション高く

笑顔で

謙虚にしつつ

人への接するって、

どこで習ったのだろうか?

 

 

 

 

親かな、と思った。

 

 

 

 

 

親のそれをマネして

今も生きてきたのだな、と思った。

 

 

 

 

 

今は自分の思考や

さらに自分自身がいないということを

発見する修行をしているので、

 

また違う人への接し方を

自分なりに工夫していくべきではないかと

思った。

 

 

 

 

大事なことはなにか?

 

 

 

 

 

無理せず

落ち着いた心で

リラックスし

大事だと思ったことを淡々と実行し

人に求めすぎそうになる自分に気づき

自分とともに着実に1つ1つ進む

 

 

 

 

そんなことではないかなと思った。

 

 

 

 

自分一人でも自分をみつめる

他人と一緒にいても自分をみつめる

 

 

 

 

 

そして平安のなかにいる。

 

 

 

 

その平安が

自分のまわりに少し広がる、

そんな風にできたら

それだけで生きている価値があり素敵なことではないかな

と思った。

 

 

 

 

 

 

今日もありがとうございました。

生きとし生けるものがすべて幸せでありますように。

 

 

こんばんは。

 

思考、感情、体の動き、

自分を見張りつづけている。

 

 

 

いつも思考が出たら、

さらに

それらを

貪瞋痴に日々分けていることを続けている。

 

 

分け方は、楽水さんが

とても分かりやすく解説してくれている。

↓ ↓ ↓

 

 

 

 

 

 

また、

現時点の自分のレベルでだが、

よいと思った動画を

下記に引用させていただきたいと思う。

↓ ↓ ↓

 

 

 

 

 

 

ご参考まで。

 

生きとし生けるものが

さらに幸せでありますように。

 

 

最近、思考を見はり続けているが、

こんな発見をした。

 

「マイナス思考をしている時

 結構、

 ゾーン入ったような 快感を感じている」

 

 

 

 

例えば、

 

家族の死などの後悔、大きな不安など

その思考に入りかけている時、

ある意味、深いトランスによる

「ゾーン」のような「平安」のような感覚があるのに

 

気が付いた。

 

 

あっ!

 

快感を感じていたんだ、と気づいた。

 

 

 

 

その後も

思考を見続けてみたが、

 

ある意味

映画に見入っているような

平安の中にいるような

 

感じを受けた。

 

 

 

 

また見続けたいと思う。

 

 

 

~ありがとう~