悟りへの道 -19ページ目

悟りへの道

今にある 
-笑う門には福来る、有難いことに気づく人は幸せである、後悔より未来へ1歩、いいんだよ-
仕事、本、感じたこと、学び、今は、悟り的考え、等いろいろ書いています。

以前、ブログで「慢」について書いた。

 

 

 

 

 

 

 

「慢(まん)」に似ている

心の動きが色々あるのが見えてきた。

 

「自己承認欲求」の変形のようにも思える。

 

勝手に分類してみた。

 

 

 

 

 

 

 

それは、

 

基本中の基本の

自分へ承認が欲しい(軽んじられたくない)、

好かれたい(嫌われたくない)という、心。=>

 

自分は得るべきだ得てもいい、一方、

他人がより得する、得ることは受け入れられない心。=>

 

また、

自分のことは大目にみてしまうう心。=

 

そして、

人を容易に批判し(優越感をえて)、

自分の未熟さは忘れている心。=>

 

さらには、

自分と人は同じはずだと勘違いし

他人へ過度な期待をし

正しさをふりかざす心=>

 

 

 

 

 

例えば、

人は自分についてはこんな風に考えたりする。

 

①自分は、当然に〇〇を得てもいい存在だ

 

一方で他人についてはこんな風な思いを抱く。

 

他人は、努力していても、〇〇を得たら、ズルい

他人は、努力せず、何か得るならば、さらにズルい

他人は、どちらにしろ自分より得るのはねたましい

 

 

 

②自分は、少し正当さに欠けても、

高めに評価されたることは許す

 

できていないのにできている

していないのにしている、と

自分が評価を得る(または己にする)ことには甘い

 

 

 

③また、他人に、

 

あれはよくない

ああすべきでない(こうすべきだったのに)

自分だったらしない(自分だったらこう出来るのに)

 

という思考。

 

過去を振り返ると

自分もしていた、または、できていなかった、こと多数。

 

人にだけ批判、審判をして、優越感を得る。

 

 

 

 

④また、人は自分と同じ人間(価値観・常識)だと

勘違いしていることにより起こる

 

他人にあり得ない期待をもち、智慧がない無知な状態。

 

本当は、

人はみな違い(境遇、モノサシ、好き嫌い等)

同じ常識、能力の人は1人としていない。

 

できるできないも

全く変わる。

 

しかし、それを知らないから、

「自分と同じようにできるはずだ、これが普通だ」と

期待を他者にしている。

 

 

 

 

 

 

 

これらを「慢」のように一言で表すと

 

※全くの勝手な”へんてこ”造語です(*ブッダは一切言っていません)

 

 

「承(しょう)」:己を常に認められたい、否定は嫌

「得(う)」: 自分は常に得て当然、他人は得るのは不快

「甘(かん)」:己は大目にみる、20-30を100-120ぐらいにさえ思う

「判(はん)」:他人を判断し己の優越をえる

「同(どう)」:無知ゆえ、自分がスタンダードとして人に期待すること

 


無意識に生きていると

 

これら他人への

「承、得、甘、判、同」の思考が

どれほどすぐ出ていることか。

 

 

 

 

 

 

 

思考を見張り、

生活を整え、

己を振り返り、

 

自己承認欲求のこれらが

暴走しないようにすることが大切だと思う。

 

まずは、思考に気を付けつつ

自分の生活1つ1つを取り組むことを心したい。

 

 

以前より、

 

「人はモノサシが違う」

それを大前提にしていないから不満が生じる

 

と書いてきた。

 

 

人間の苦痛や不満の原因は、

 

・モノサシ

・欲(中でも、自己承認欲)

 

が大方である、とも書いてきた。

 

 

 

 

 

 

 

数年前にたまたま見たら

大変当たっていた占いがあり、

 

縁が重なり、

最近その占いのことを少しだけ勉強した。

 

そこで思ったことがあった。

 

●自分は、自分なりの「特徴」がある

 

●他人もそれぞれ、「特徴」があり、自分と違いがある

 

 

 

 

 

 

 

そう理解すると、こう思った。

 

●自分は、自分の「特徴」で生きればいい

 

●他人も、他人の「特徴」で生きているし、それでいい

 

それを理解すれば、問題は生じないと。

 

 

 

 

 

 

 

 

”悟り的視点”の探求について書いてきたが、

 

”占い”も形こそ違え、

同じことを言っていたのかもしれない。

 

「モノサシ」や「特徴」は、

誰一人同じ人はいない。

 

徹底的に、大前提として、とにもかくにも

 

皆違う

 

 

 

 

 

 

 

人は、ふつう

”みな同じ”だと思っている。

 

それゆえ

なんでこうしてくれないのか、

通常はこうするでしょうと

自分の常識で切りまくる。

 

期待し、

怒り、

不満、

が生じるように思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

今回、一例で、

身内、知人等の「特徴」も占いで調べてみた。

 

Aのことを私は、以下のように感じていた。

 

人付き合いがよい、人気者、遊びや外出楽しいことが好き。

一方、緻密さ、計画性、堅実性は少なめ、浪費気味。

 

 

 

 

 

 

Aを見てこんな思考がよく出た。

 

「明るく楽しそうだなぁ。

ただ、毎回お金がない話をきかされる。

浪費に気を付け、計画的にしたらいいのではないか?」

 

 

 

 

 

 

でも、今回Aさんを占いで見てみたら、

そのものの特徴が書いてあったのだ。

 

「この星の人は

 人付き合いがよく、遊びや外出好き。

 お金はあるだけ使ってしまう人。」

 

これ、もうどうしょうもない

Aさんの「特徴」なんだ!

 

と思えた。

 

 

 

 

 

 

ほか数人も

合点がいく特徴が占いに出ていた。

 

誕生日である程度の特徴があり、

変えられないのだなぁと改めて思わされた。

 

 

 

 

 

 

「思考」は勝手に出ているだけ、

ととらえているが、

そのくらい、

 

「特徴」も勝手に自動で出ているだけ。

 

基本、

簡単にどうかすることができるものではない。

 

また「特徴」というのも

「思考」の延長のようなものともいえると思う。

 

そのくらい勝手にでてくる「特徴」。

 

 

 

 

 

 

その「特徴」を分かった上で、

生かしたり、工夫していくことが大事なのだと思った。

 

ジャガイモならジャガイモの特徴を生かして。

レタスならレタスの特徴を生かして。

 

 

 

 

 

 

 

まとめると、

 

大前提で、

人間はとにかく「モノサシ」が違う

人間はとにかく「特徴」が違う

同じ人は、誰1人もいない。

全員違う。

 

ゆえに、

同じ人間にみえるが、

全く違うことを大前提に生きる。

感情的にならない、なる必要はない。

争わない。

 

しかし、

違いがあることは受容しつつも、

 

現実的な

お互いがよりよくなる対処はしていく。

 

そして、

平素は自分の特徴を分かった上で、

自分自身を生かして生きていく。

 

 

 

 

 

人は全く違う、

それを大前提として生き

 

そして

 

欲に気づく

モノサシに気づく

自己承認欲に気づく

思考に気づく

感情に気づく

 

そんなふうにして、

 

 

 

 

平安を

より楽しんでいきたいものですね。

「人生に意味を求めない」

 

たぶん、

スマナサーラ長老の本だったとは思うが、
ある本にこうあった。



人間は人生をたいそうに考えているが

よくみると



寝て起きて

食べて

排泄して

仕事をしているだけ


無駄をきらい、

有意義で価値ある人生、を求めがちだが

8-9割たいしたことをしていない

 

と。






大きな仕事1つでも、


着替、歩き、電車にのり、

会社に入り、椅子に座り、

書類を出し、ペンをもつ、

(少しプロジェクトについて考える)
お茶をのみ、立ち、座り、
電話の受話器をとり、ダイヤルをまわし、

トイレにたち、席に戻り、

時計をみて、同僚に話しかけられ、

コピーのために書類をもち、コピー機をあけ
・・・

とたいした事をしていない、
 

ということだ。






その人生に問題を感じるなら、
「妄想」

しているとしか言えないと。

 

 

 

 

 

 

まさに。

 

ほとんどの時間は

たいしたことはしていないなぁ。

 

 

問題に感じるとは、

「妄想」

を広げている状態に思える。

 

そこにはまり始めたというか。

思考にもっていかれているというか。

 

 

 

 

 

 

「妄想」はだいぶ減ったと

思い込んでいたが、

 

「問題」を感じるときには

「妄想」にはまっている気がした。

 

 

 

 

 

 

だから「問題」に感じない

すぐに「妄想」をやめる

 

のも容易でないとも思う。

 

 

 

 

 

 

「問題」に感じ始めた時、

 

「いやいや、まてよ。

 妄想しかけているぞ。

 

 固定された視点でみていないか。

 本当は、どういう意図がるのか?

 または・・・・」

 

と少し立ち止まって

みることが大事な気がする。

 

ほがらかに楽しくやってみよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

すべてに感謝。

万人万物がますます幸多くありますよう。

奇跡記録(運がよかったことの記録):

 

●朝7時からのMTGを思い出せた

 

早朝MTGが入っていたが

すっかり忘れていた。

 

前日なぜか疲れ20時就寝、3時起き

「あっ、今朝7時に・・・!」

と思い出せた。

 

わーついているなぁ。😀

わーい。

 

 

●犬が少し元気に

 

実家の老犬が起き上がれない様子ときく

大事にしてきたので会いに行くと

 

起き上がり歩き

散歩や餌のおねがり

翌日も散歩にいけたという

 

元気になってほしいという気持ちが

通じたかなぁ。😀

 

 

 

 

今回、

「陰陽」

について少し理解できたように思った。

 

 

 

 

 

 

難しく書いたが、

 

物事には両面があり、

 

●よいだけ、わるいだけ、はない

●表があれば、裏もある

 

ということが、分かった感じがした。

 

 

 

 

 

 

この本の解説動画をみた。

(最下部にリンクあり)

 

ボクが地球を救う!: 究極の真理についての対話(覚醒ブックス)

 

 

 

 

 

 

 

今回気付いた、

 

「何事も必ず2面がある」

 

という見方。

 

 

 

 

 

 

人は

 

見えた一面だけを見て

 

その一面が全てだとすぐに思ってしまいがちだとも思った。

 

 

 

 

 

 

でもそれは片面でしかない。

 

 

 

 

 

でも、

どんな表面(おもて)にも

見えない裏面(うら)が必ずある。

 

 

 

 

 

 

 

今回の話で例えると、

 

異性にモテるとは、

ハッピーのように思うが、

 

良さもあるが、不便さもあるということだった。

 

 

一方、

 

モテないことは

デメリットもあるが、良さもある。

 

 

そういえば、ある綺麗な女優さんが、

 

「若い頃、モテて、モテて、

 あまりに告白されずぎて、

 断るのが面倒で仕方なかった。」

 

という悩みを話されていたなぁ。

 

 

 

 

 

 

 

 

長所あれば、短所あり、

短所あれば、長所あり、

 

ということだろうが、

 

なかなかその視点を常に持てないのが人間ではないだろうか。

 

もちろん、自分も然り。

 

 

 

 

 

 

結婚ならば、

 

結婚による幸せと、 煩わしさ、

結婚しない寂しさと、自由さ、

 

などのように。

 

 

 

 

 

 

 

「陰陽」がある

 

という認識を常に心におけたなら、

 

物事の見方がかわる。。。なぁと思った。

 

 

 

 

 

 

 

羨ましがることも

 

嘆くこともない。

 

 

どんな状況でも長短あり。

 

どちらでもいい。

 

どちらもいい。

 

 

今の立場の感謝に気付ける。

 

 

その場所でベストをつくし、

 

できる努力をしていけばいいと思える。

 

 

どちらでも、

 

幸せは、

 

必ずすでにココにある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

成功することも失敗することも

どちらもいい

 

好かれることも嫌われることも

どちらもいい

 

出来ることも出来ないことも

どちらもいい

 

・・・

 

 

どちらの自分であっても

 

いいことばかり。

 

 

 

 

 

 

幸せはどこかにある、

と思い込んでいたなぁ。

 

 

 

 

 

 

こういう原理を知識としてもないし、

学ぶ機会がなかったように思う。

 

悟り的視点も本当にありがたいが、

こういう知恵のようなものも

ありがたい。

 

 

 

 

 

 

また原理につてい、

さらに考察してみたいと思う。

 

 

 

 

 

 

ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

****** まとめ *******

 

特に印象にのこったの内容。

 

●””モテない” と不満を言う人がいるが、

その有難さを知っているのか。

感謝できているのか。

 

”モテない”ということは、

一人でいる時間をもてる、

ストーカーに付きまとわれることがない、

ということ。

 

孤独かもしれないが

見方を変えたら良き面がある。

そのことに気付けているか。

 

現状に感謝しているか。

 

 

●固定概念を外す。

 

多くの人は〇〇しなければならない、

〇〇しないと生きていけない、

と信じて、それで行動している。

それ以外の道がないと思っている。

 

それが間違っている。

それをやめる。

 

〇〇しなくても

生きられるようになっている。

それくらい宇宙は寛大。

 

飢え死にするか、

宇宙を100%信頼して生きるか、

そのくらいの覚悟で生きればわかる。

 

世の中は甘くない、

と信じているからそうなる。

 

●常に自分自身に矢印を向ける。

いいことも、悪いことも。

 

モヤモヤしたら、

なぜ自分はもやもやしているのか、と。

 

有頂天になったら、

なぜ自分は有頂天になったか、みる。

 

あの人が悪いとか、外でなく

自分の内側をみていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『原訳「スッタ・ニパータ」』

アルボムッレ・スマナサーラ

 

原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章

 

 

 

前のブログで、

この本を紹介した。

その続きの考察。

 

 

 

 

人は快楽依存状態であるが、

それに気づかないでいる。

 

 

 

 

いろいろな快楽を追い求めるが、

 

満足いかない現状を忘れたり、

目をそらすためのような気がした。

 

 

 

 

 

アクティブ派は

コンサートに行ったり

友達と羽目をはずしたり。

 

インドア派は

本を読んだり

ゲームをしたり

に時間を使ったり。

 

 

 

 

2つは

全く違う目的のようだが、

 

ただ、

やり方が違うだけで

 

根底の心理は

 

今の「苦」を解消したい

「苦」の我を忘れたい、

「苦」から目をそらしたい

 

という思いで

事がなされているように思う。

 

 

 

 

とにかく、

思い通りにしたいが

そうならない状況を忘れたい。

 

欲の通りにしたいが、

それが満たされない我を忘れたい。

 

 

 

 

 

真理に気づくべきとか、

義務はないように思っている。

 

が、

 

真の自分に気づき

平安な心を求める心(発心)がでたならば、

 

我を忘れるための快楽を求めるのではなく、

 

 

思考を見張り

 

モノサシで測り思い通りにしたい、

欲を満たしたい、

自己承認欲求を満たしたい、

 

 

という考えが都度出ている自分に

気づいていくことが

 

一番誰でもできる

初歩なのではないかと”私”は思っている。

 

 

 

 

また、

 

スマナサーラ長老の教える

初期仏教では、

 

教えとして、

悟りに至る方法が確立されている。

 

 

色々な方法があるし、

合う合わない、

時期という縁もあると思うが、

 

興味があれば、

そちらにふれるのもよいかと思う。

 

 

 

 

 

全てにありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『原訳「スッタ・ニパータ」』

アルボムッレ・スマナサーラ

 

先日すでにブログで紹介した

「怒る人は神様気分」

の本でもある。

 

また読み進めたので記録。

 

原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章

 

 

 

 

 

 

読んで思ったのは、

人間はつくづく、

 

自分のモノサシでまわりを測り、

 

欲(思い通りにしたい、これが常識)で、

生きていおり、

 

そして、自己承認欲求があると。

 

それらが満たされないと怒りがでる。

 

 

 

 

 

また、

 

楽しいこと、

興奮すること、

褒められること、

刺激があること、等

 

を良しとし、それを求めてやまない

 

快楽依存症でもあると。

 

 

 

 

 

つづきの考察は、

またの機会に書きます。

 

 

 

---------------------------------

 

●人は集中力がなく興奮状態で生活している

 

●人は快楽に執着し、

(見る、聞く、心で感じるもの)

もっと欲しいととらわれ、

心の中の快楽に依存しているし、

そのことに気づかない

 

●もっとたちが悪いのが

知識・考え・主義に対するとらわれで

執着している

 

●欲をすてるとは

モノを欲しがることを捨てるように

誤解されがちだが

「執着」を捨てることが大切

 

●怒りは「欲」から生まれる

 

●いつも楽しげな人は、

怒りが消えたわけではなく

 

楽しみに重点を置いて、

嫌な対象を素早く排除する性格になっている

 

●人生は問題解決しているだけ

 

●人生は苦の連続

 

立っていて辛くなり、座る

座っていて辛くなり、位置を変える 

位置を変えたら、お腹が空いてきて立つ・・・など

 

何か解決しても、

また次の苦がくる

 

●人は煩悩の塊

欲、怒り、無知、の3つ衝動(煩悩)で生きている

 

●人は、欲、怒りにかかわることは進んでやる

無知を強化する世間話、

無駄話は何時間も続ける

 

嘘をつかない、殺生しない、怠けない

などの前進的な行為はやりたくないし

やろうとしても難しく感じる

 

快楽におぼれることは

進んでやりたくなる

これが精神的な後退、堕落への道

 

●私たちは、

自分自身が確実に実体としている

と思っているが、

感覚のことを勘違いしているだけ

 

私が聞いた、

嗅いだ、

味わった、

感じた、

考えたなど

 

色声香味触法を感じただけで、

瞬時で変わり、

情報が触れなかったら、感覚も起きない

 

瞬時に変わることに、

永遠の私がいると思うほど邪見はない

 

●怒りには基準がある

 

●一方、欲は際限がない

たいてい欲が満たされないとき怒りが起こる

 

●無知は欲と怒りを作り出す感情

 

データをありのままみられないが、

その理由は

能力(観察能力、集中力)がないから

 

無知だからこそ、

データを捏造し、快楽をむさぼる

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

先日、

過去の読書記録の感想を書いた。

 

 

 

 

そこで思ったのは、

そもそも今「悟り」関係の

話題を書くようになったのは、

 

よく言われることだが、

子供時代の成育環境が

関連している、ということだ。

 

 

 

 

自分の人生を

ある程度恵まれているのに

なぜか、辛く感じていた。

 

 

 

 

それは、

そういう「辛い」

と感じる反応をしてしまう

 

モノサシというか

洗脳というか

思い込みというか、を

 

子供時代に育んで、

 

無意識で自覚ないまま ”自己自身の生き方”

にしていたからではないかと感じた。

 

 

 

 

 

親の過干渉もあった、

失敗をさせない教育であった、

できて褒める、できないと怒られる、

 

だったように思う。

 

 

 

 

気持ちを分かってもらうとか、

何もなくとも受容されるとか、

ただほめられる、などは少なく

 

あきらめて我慢する

怒られないようにする

自分の気持ちより人の反応を察知する

 

が生き方の基本になった気がする。

 

 

 

 

 

 

でも、当時は

 

そういう教育しかしらないし、

それが普通だと思っていたし、

親以外の大人からも教えられる機会はなかった。

 

 

 

 

 

自覚があるのは、

 

●自立していても、なにか不安がある

十分よくやっている場合でも

自分自身を肯定しきれない

 

●自分の気持ちよりおそらく

合っているかどうか

周りの反応(正しいか、怒られないか)

を気にしてしまっていた

 

●こうあるべきだを強く求められたため、

 

まず自分がやってみて学ぶ、

危険な時だけ指摘してもらえる、

ほかは受容されているという経験ができず、

 

自分はどうしたいか、

こうしたらこうなるんだ、

ではどう工夫しようか、

などと自らチャレンジや考えることはできず、

 

十分な依存ができなかったので、

自信が育たなかいまま社会へ

(→でも、社会に巣立ち、頑張っていたとは思う)

 

 

 

 

 

 

今それが自覚できた。

 

 

 

 

 

かつて、各本や学者の考えに影響を受け、

「親が悪い」と親を悪者のように認識していたことがある。

 

でも、今の私はそれは間違っていたなぁと思う。

今、私は親についてはこんな考えをもっている。

 

・完璧な親なんていない。いて、2割

・ほとんどの親がどこかしら欠けている部分はあるもの

・親も人間、20-30歳の若いときに初めて親になった

・親は、親になる素地が整っていなくてもなれる

それでもいい、と天がOKを出している

・親も正しくはなかったかもしれないが、

故意に子供を悪くさせてたくて教育していない

持ちうる能力でベストのことと考え

子供の教育をしてくれていたはず

・親は親として社会で必死に対峙しながら(仕事や主婦)

子育てをしてくれていた

・親を責めても仕方ない

親を責めて自分も人も幸せになるなら責めればよい

しかし、98%ぐらいはそうならないと思う

・実際子供を十分受容する子育てでない部分はあったかもしれないが、

視野が狭い、自己中心の子供時代に感じたことは

若干偏りもあること

・親に限らず、仕事でも、社会生活全般でも

人のせいにしない、人を変えようとしない、

が大事だと思っていること

 

 

 

 

それも運命の1つ。

心臓が悪く生まれた、ぐらいに思い、

それがあった上で、人生を幸せにしていこう!

と思う姿勢こそ人として大事だと思う。

 

 

 

 

 

今から自分が補っていけばよいと、

あらためて思った。

 

・ 正誤を気にしない

・ 興味もったらやってみてよい。

  ただし、

  危険やリスクが高いときは予防策はっておく。

・ 人の反応、目を気にしない。

  自分が自分を大事にできればよい。自分第一。

・ 自分を徹底的に受容。

  成育歴で受けられなかった受容を

  今の自分が自分に毎日いく時もしてあげる。

 

  

 

 

 

 

今回書いた内容は

アダルトチルドレンへの対処法の例として

よく聞くような話の1つにも思える。

 

 

 

 

でも、

今回、

自分自身が自分の頭で考え、

 

自分の過去の成育歴を自覚し、

これからはこう自分が自分にこうしてあげて生きていこう!

 

という言葉にしたら

 

自分の中に

非常に腑に落ちる感があった。

 

 

 

 

 

 

自分がさらに幸せになることで、

周りも少し照らすことにもなるでしょう。

 

 

 

私は、過去にここではないところに

読書記録をしていたことがある。
 

10年ぶりに思い立ち、読み返した。





本のエッセンスのような感想や抜粋を
記録していたのだが、

自分で書いたものの
あまりに勉強になり
読むのが止まらなくなってしまった。






最近は「悟り」的思考になって楽になってきたので
それを深めたい思いが強く
悟りや初期仏教系の本を手にすることが多かったが、

一般的な本もよいなぁ。





その中でも今の私が心にとめたいと思った内容。


●苦労、大変、なんて考えない、それが普通だと思う。
コツコツなんて考える前にやる、バンバンやる。
世の中は自分の思い通りにならない。
人をうらやましく思わない。
見て見ぬふりも宝。
世のためはうそ、まずわがために生きろ。
●徳を高めるために必要なのは、

知識、交流などでなく、決意のみ
●他人や本から上手くいくコツを学んでも、ヒントにすぎない。
答えは自分の中にある。

自問自答しながら
自分なりの方法を確立することが大事。


●信頼できる人とビジネスを進めることが大事。
学歴、資格、肩書、経歴は一切関係ない。
単純に、好きな順に人を大事にしていけばいい。
●物事はシンプルに考える。
料理店で一番大事なことは、料理がおいしいこと。
それ以外の努力もそこを押さえておかないと意味がない。
●成功しない理由は多角経営、決めたら1つの専門家になる


●過干渉だと子供が自立できなくなる。
受け入れられた、失敗を見守られた、現状でしょうがないと思える、ことが大事。
シャツを着る1つも、見守る、子供に考えさせる。
危険でなければ手をださない、口出し、文句言わない。
子供が行動することをすべて認める。
そのうえで危険なものを除いてあげる。
過保護だと不良にならない、過干渉とは違う。
過保護に育てると、子供は依存が十分できたから自立が早く、
そこからある日出ていけるという自信がつく。
●他人に「あげる」しない。「もらう」「くれる」に。
して「あげる」はエネルギーが枯渇する。
親切させて「もらう」掃除をさせて「もらう」。
主人が毎日帰ってきて「くれる」、と考えると幸せになる。
「あなたがいてくれるだけでいい」という境地大切。
●不満から外に何か求めても同じ。今の状態を捨てる。
すぐに現状は捨てられないから、小さいモノから捨てまくる。

●〇〇できました!感謝します!10回イメージしながらとなえる。
●目標からずれずに、正直気持ちを言う。繰り返す。
●いやなことには「ありがとうございます!」
願いには「〇〇になりました。感謝します!」
悪い言葉は決してい言わない。
●どんなことがあっても、それをプラスにとる!


知らぬ間に今できるようになったことと、
すっかり忘れていて課題としたいこと、
いろいろあった。

あらためて学べてありがとうございます!
ますます成長でき夢がかない、感謝します!












 

タイトルの言葉。

まさに ”言い得たり” と思った。

 

今読んでいる下記の本にあった一文。

『原訳「スッタ・ニパータ」』アルボムッレ・スマナサーラ著

 

原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章

 

 

 

 

 

色々なブッダ(釈迦)の本が出ているが

スッタ・ニパータとは、

ブッダの語った言葉そのものに近い内容のこと。

 

だから、真意をついていると感じることが多い。

 

 

 

 

 

前半、怒りについて詳しい話がいくつもあった。

 

こんな一文もあった。

 

私たちが体験・経験しているのは、

「怒りは良くないとはわかっているが、やめられない、すぐに起こってしまう」状態です。

 

つい怒ってしまう。怒ってしまうと、すぐ気持ちが収まらない。

 

それで延々と連鎖反応のように、次から次へと怒りが続いてしまう状態です。

 

その状態から自由になることが、解脱なのです。

 

 

 

 

怒りがコントロールできれば、解脱?

そうなのかなぁ?

 

 

と少し思ったのだが、

こういうことかなと思った。

 

 

 

 

 

というのも、

 

自分が最近、

よく思考に気付くようになった、

感情に巻き込まれなくなった、

と書いているが、

 

思い起こすと、

その8割は「怒り」である気がしたからだ。

 

 

 

 

 

初期仏教の区分だと苦の原因となる「怒り」は

単純な怒りに加えて、

下記も怒りだといわれている。

 

・嫉妬

・後悔

・物惜しみ

 

 

 

 

 

欲や無知も苦しみの原因ではあるのだが、

単純に1つで終わるものではなく、

 

欲と怒りのセット

無知と怒りのセット

欲、怒り、無知のセット

 

と複合的になっているのが常という。

そう思う。

 

 

 

 

 

よって、気持ちの動きは

ある意味全部「怒り」ともいえるのかもしれない。

 

それを容易にコントロールできれば・・・

 

気持ちが動かない物体がいる・・・

それを見ているモノがいる・・・

モノは全体を認識しているだけ・・・

 

あぁそうかぁ、

 

解脱にもなりうるなぁ

解脱と表現できるのだなぁ、

 

と理解できた。

 

 

 

 

 

最近、ほかの著者の本を読むことが多かったが、

久々にスマナサーラ長老のこの本を読んだ。

 

さすがだなぁ

すごい本だなぁ

 

と、つくづく。

 

今日も光自身たれ。

 

 

 

 

 

 

※ この本もいいですよ

 

超訳 ブッダの言葉 (ディスカヴァークラシックシリーズ)