悟りへの道 -18ページ目

悟りへの道

今にある 
-笑う門には福来る、有難いことに気づく人は幸せである、後悔より未来へ1歩、いいんだよ-
仕事、本、感じたこと、学び、今は、悟り的考え、等いろいろ書いています。

あるヒーリングでもあり、現実創造の手法を習い、それが使える。「技」と呼んでおく。


基本、自分か身内にしかしていないが、先日その「技」を使った。


仕事をしていて午後よく体がこってくることがある。
先日も、急に体が硬くなっているのに気づき疲労をどっと感じた。背中、腕、あちこちが痛い。
疲れているんだ、と思うのもいいが、今回技を使うと自分でも驚くぐらい解消。
普段なら体を動かしたり、イライラしかけたり、何か食べたり、横になってもよいところを、普通に痛みがとれ仕事に戻っている自分がいた。


自分がスゴイとか、技がスゴイとか、言いたいのではない。こういう不思議に見えることは、不思議ではない、といいたい。


というのも、そういう力が本当は我々人間には備わっている。かつ、日本人は特にその力がスゴいらしいと耳にしてきたが、私も日本人の精神性と霊性は他国とは少し違うのではないか、と最近実感として感じ始めてきた。

そして、現代、医療で不調を直すのが常識だが、本当だろうか、とも疑問を提示したいと思う。


また、今までよく悟り的視点のことを書いてきた。本当の自分は何なのか。自分はいるのか。自分は”自分を見ている自分”が自分なのではないか。そもそもこの世全体の現象自体が、幻想なのではないか。つまりそれは自分をなくすことにつながるきがしている。

最近、「自分をなくす(周りと一体化、我をなくすなど)」力を感じている。実は、今回「技」を体に使うとき、自分をなくした。以前は”自分”するんだ!”自分でないもの”を治すんだ!という「自分」や「力み」があったが、あきらかに自分をなくしたほうが効果が上がった気がした。

 

※全くの余談だがメモがてらに書いておきたい。

ある末期がんであと1週間と言われた方は、最後だからと色々してみたが、一番効いたのは環境の良い自然に入り、裸足になって土にふれるのを40分ほどしたら明らかに調子がよくなってくるのを感じたという。(その後その方は生還、今は元気)。そんなこともある。

思考をみつめ、意識を使いつつ、比べることなく、承認という快楽に依存することなく、上とえらぶらず下となげかず、欲への依存と快楽に気づき、無知を知り、基準(モノサシ、常識)を疑いつつ、落ち着いた心で、諸行無常、すべて自分ごととし受け入れ、最大の良きことで囲まれていると世の中をとらえ、今にあり、自分をなくし、感謝と笑みを思い出し、生きていきたいものですね。

全ての生命、万物が一番よい方向にいき平安につつまれますように。
 

ウィルスバスターの

「デジタルライフサポートプレミアム」という、

PCやスマホ、プリンター等について質問できる契約をしている。

 

 

 

以前、おススメと書いたような記憶があるが、

少し違う感想を持ち始めた。<(_ _)>

 

 

 

 

ここのところ、

問題が解決しないうえ

”適当”に終わりにされている感じがしている。

 

 

 

 

解決しないことはあるとは思うが、

以前とは態度もやる気も変化した??

 

 

 

 

一番ひどかった前回は、

毎回送られてくるアンケートも送られてこなかった。

 

 

 

 

「怒り」の思考が出かけたがすぐそれに気付き、

 

内側をみつめ、

 

結局、

自分視点の自分劇場をしようとしていたと、

思った。

 

 

 

 

悟り的視点からすると、

”自分”の「モノサシ」で、

 

サポートはこうあってほしい、と

勝手な「期待」をしていた。

 

 

 

 

 

または、以前と同じサービスを望み

「諸行無常」を忘れていたかもしれない。

 

会社の体制だって移り変わるものだ。

 

仲が良かった恋人が心変わりすることだってあるのだ。

 

 

 

 

もしくは、自分の「無知」で経験が足りなく、

”そういうこともある”と思えなかった部分もあるだろう。

 

そして、自分はできている自分とはしないと比較による

「慢(まん)」がでていたのかもしれない。

「慢」も起こすべきでないとブッダは言っている。

 

 

 

 

結局、別のパソコン業者さんを探し、

依頼(有料)し直していただけた。

 

 

 

 

思考感情をみつめ、

事実のまま受け止め、

できる対策をしていく

(対処や再発防止、経験値として学びを再確認)。

 

 

 

 

いずれにせよ今回の学びは下記だったように思う。

 

●腹立たしく思いそうになったが、怒ることはない

 

●怒りが一番大敵

 

●モノサシ、無知、期待で周囲を見ていなかったか

 

●世の中は諸行無常

 いつでもその流れを受け入れようではないか

 

●状況の良し悪しを決めているのは、すべて自分

 

●こういうこともある、と学び、経験、知とする

 

●新しいPCサポート業者さんを知る機会となった

 

●悟り的視点は、常に応用できる

 

●できる対策、再発防止、経験値を再確認

 

 

感謝。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最近、

人間の人生はシンプルだと、さらに思っている。

 

不満の原因は

「モノサシ」と「無知」が基本中の基本と感じている。

 

 

 

 

それに付随するものは、

 

・比較 

・思い込み(勘違い) 

・自尊感情 

・快楽依存 

・期待 

・依存 

・欲

 

 

 

「モノサシ」は「基準」ともいえる。

 

ほとんどの場合「基準」が間違っている。

 

しかし、自分の「基準」が正しいとほぼ全員が思っている。

 

 

 

 

自分の常識が正しい、

普通はこうだ、

褒められる快楽を得ることはいいことだ、

得ることはいいことだ、

比較の基準はさまざまなのに自分の基準で比較しているetc. 

をしている人々。

 

 

 

 

 

例)自分は貧乏・・・

何を基準としているのか? 

誰と比較しているのか? 

海外の貧しい国は無視しているのか? 

国内であっても今の周囲と比較しているか? 

 

 

 

 

 

 

自分のモノサシで測り、

その基準に疑いもせず、

己の無知では?と立ち止まることもなく、

喜んだり、悲しんだり、悔しがったり、怒ったり。

 

 

 

 

 

 

無知、期待、依存心が背後にあることは見えない。

 

自分が知らないだけかもしれない、

その期待や依存は本当にしていいものか?

 

なんて考えたこともない。

 

 

 

 

 

 

でもそれに気づくと、

ほとんどの場合、

 

自分の一人芝居だなぁと感じてくる。

 

 

 

 

 

勝手な「モノサシ・基準」による

 

妄想の世界で

自分物語を作り上げて毎日を展開させている

 

と気付く。

 

 

 

 

さらには、

自分自身の存在自体もあやく思えてくる。

 

”勝手”に出てくる「思考」って自分でしょうか?

 

自分でないとしたら・・・。

 

 

 

 

 

意識が現実をつくっていくので、

欲することは大事だが、

 

モノサシ、無知、思考で

右往左往することなくそれに気づきつつ、

 

次の現実を作っていきましょう。

今日は、人は、

今の「縁」だけをみて勘違いで生きているかもしれない、ということを書きたいと思う。

 

 

 

 

 

 

若い頃の話で、こんな実体験がある。

狭い心の話になるので、ご容赦ください。

 

私には、A、B、という友人がいる。

その2人に頼まれて、

キーマンを紹介したことがある。

 

 

 

 

 

Aさん

・私が紹介し、成功ポイントも教え

1年ほどで結婚に至った

 

Bさん

・私が紹介し、健康が回復し、

幾年か後よい仕事にもつき、現在は要職に就いている

 

 

 

 

 

 

2人に共通していることがある。

 

 

 

 

 

それは、私に

たいしてお礼がなかったということ。

 

 

 

 

 

しかし、違っていたのは

その当時の私は、

 

Bさんのことは気にしないのに、

Aさんの態度をたいそう気にしていた。

 

不満に思っていた。

 

 

 

 

 

 

今の見方が変わった自分なら、

 

・この人は、そのようなモノサシ、常識の人なんだなぁ

 仕方ない

・自分のモノサシで、図ろうとしていたなぁ

・自分に人徳がなかったのかもしれない

・自分の自己承認欲求が大きかったかもしれない

・自分のしたことは100倍、

 人にしてもらったことは1/10ぐらいに自分も思っているかもしれない

・相手が自分と同じぐらいの価値観だと思い込んでいたな

・相手は全く違う常識やレベルだったのかもしれないな

・これからは恩着せがましくならない程度に

 行動するよう気を付ければよい

 

で終わりにできると思う。

 

 

 

 

 

 

しかし当時の私は、

ぐるぐると自分の「モノサシ」で

失礼だと考えてしまっていた。

 

 

 

 

 

 

Aさんについて、私は、

 

良いことの直前に自分が関わったから

”私のおかげが大きい”

と思ってしまっていた。

 

 

 

 

Bさんについては、

 

数年たち目立った結果が出たので

私のおかげと思わなかった。

 

 

 

 

 

 

 

先日、急にその2人のことを思い出し、

ある考えがひらめいた。

 

 

 

 

 

 

Aさんは特に恩知らずのように

当時とらえる自分がいたが、

 

Aさんは、コップがあふれる直前まで行っていて

最後の1滴の「縁」を自分が注いだだけのかもしれない。

 

 

 

 

 

Bさんは、

本当は

空に近いコップだったかもしれなく、

 

そこに9割のそれなくして今がないほど

自分の「縁」が影響力があり、

 

Bさんこそ感謝が不足していたかもしれない。

 

 

※ 恩知らずとか、感謝が足らないと書いているが

  当時の自己承認されたい、恩着せがましい頃の

  自分の考えなのでご容赦ください。

 

 

 

 

 

 

人は、他人に対して

今の自分とのその瞬間の「縁」だけでみてしまいがちだ。

 

しかし、

人は膨大な「縁」の中で存在している。

 

自分が見えないだけで、

その膨大な「縁」によりその人の現状がある。

 

 

 

 

 

その今の縁だけみて、

 

怒ったり、

悲しんだり、

誰かのせいにしたり、

誰かに感謝したり、

 

しているように思った。

 

 

 

 

 

 

誰がいいとか、

誰が悪いとか、

 

本当はないのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

よく甲子園で

最後にエラーした選手が罪悪感を抱いたり、周囲もあのエラーがなければ、と思ってしまうことがある。

 

 

でも、

 

その前日に食べた肉が傷んでおり調子が悪かった、もともと胃腸が弱かった、

 

その肉自は、配送中に追突事故があり、冷蔵がストップし若干傷んでしまっていた、

 

追突事故は、信号の不具合から起こった、

 

信号会社も不備があったし、信号設置会社も確認不十分の不備があった、

 

その追突車は妻が亡くなったばかりの夫が注意散漫で起こした、

 

妻が不摂生=病気になったのは、子供が交通事故で急死し、自暴自棄になったから、

 

その交通事故を起こした配送業者は急ぎの仕事だった

 

急ぎの仕事はパワハラ社長の指示だった

 

そして・・・、・・・、・・・

 

という背景があったとしたら、

 

いったい誰が悪いのだろうか?

 

 

そのエラーをした球児、その今だけを見ているが、膨大な縁から彼の現状が成り立っているといえないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

膨大な「縁」を思えば、

相手を責めたり

怒りの感情に巻き込まれるよりも

 

今の現象や現状を認識し、

さて、この状況であるのだから、

ここからどういう対処をしてよりよくしていこうか、

 

と今できる対処法を探し行動していくのが

幸せな人生への進め方だと思う。

 

つまり、そうすれば怒り悲しむことも減り、

落ち着いた心で常にいられるのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

今の縁からの脱出は、

盲目からの脱出、でもあると思う。

 

 

 

 

 

 

人生はよき方向にしかいかないと思い、

またたゆまず笑顔で歩いていきたいものですね。

 

 

 

 

 

 

超訳ブッダの言葉

 

反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」

 

お金を拾った話を何度も書いてきた。

 

2022年8月から数えてみたら合計13回。

今回で14回目だ。

 

大きい額ではないし、家の中での話もあるが

以前は拾うことなどめったになかったので記録してきた。

 

 

 

 

 

久々に今日拾った。

 

ゴミ出しに道を歩いていたら

キラーン✨と光るものがあった。

 

1円発見。

 

 

 

 

 

普通に人通りがある道だが、

誰からも拾われなかった様子。

 

 

 

 

 

 

以前人に話したら、

「いつも見つけているんじゃないか?」

と笑われたこがある。

 

否定してみたが、

自覚がないだけか?と思うぐらい

 

この数年拾っている。

 

 

 

 

 

年末にさらに運気アップの前兆ととらえつつ、

 

みなさまも

さらに幸多き年末年始でありますよう。

 

 

 

 

 

 

↓拾った実物写真です

 

疑うべきは

 

相手の”常識”でなく

 

自分の”常識”

 

 

 

 

 

 

普通はこうでしょう

 

信じられない

 

それはヒドイ

 

・・・その基準はどこから来たのか

 

 

 

 

 

 

相手の常識を疑っている

 

逆に信じているのは自分の常識

 

 

 

 

 

 

これが普通と考えている =自分の常識

 

これが良いと思っている =自分の常識

 

これが礼儀だと思っている=自分の常識

 

 

 

 

 

 

この判断基準の正しいか否かを

 

一度も考えたことがない

 

 

 

 

 

 

それよりも早く

 

ありえないと

 

感情が動き、考える間もなく、疑いもせず

 

 

非常識な他人と

 

常識ある自分が、つくられていく人間ドラマの日々

 

 

 

 

 

 

 

 

■自分の常識が正しいとの思い込み

 

■人はみな同じだと思っている勘違い

 

■すべての無知(知識不足、経験不足、思い込みの視点)

 

この3つこそ

疑う前に

 

土台としてもっておくもの

 

 

 

もうだけかもというくらいの逆境に立たされても

グサグサと非難を浴びても

 

耐え忍びぬくこと

 

それが君が

穏やかさを育てる

 

”最良の試練” 

となる

 

 

心の安らぎこそが

最高に価値がることだと

 

悟りし人

ブッダたちは口を揃えて言っている

 

 

 

 

 

(以下の本より引用)

超訳ブッダの言葉

 

人間は、自分と他人へは、同じ基準で見られない。

 

自分には大変甘く、他人に厳しい。

書き出してみると・・・

 

 

 

 

自分については、”ある”が基本

 

・ 実力など「ない」ことも「ある」と思う(*慢)

  例)同等なら上、負けていても同じ、ぐらいに思う

・「得る」べきことをしていなくても、

  得る権利があると思う

・「もっともっと」と際限なく所有を望む

・「してあげた」ことを10倍に思う

・「してもらった」ことを1/10以下に思う

 

・ 逆に悪いことについては自分には「ない」と認識する

 

 

他人については、”ない”が基本

 

・「ある」実力などを「ない」ようにさえ思いたがる

・「得る」べきことをしていても、得たら不満に思う

・「得る」ことを認めざるえないときは、

  評価、批判、などで認めたがらない

・「少なく少なく」を望み、以前より得たら

  自分もすでに十分持っているものでさえ

  怒り(ねたみ、うらやみ)の気持ちが生じる

・「してもらった」ことは”ない”または”当然”にとり

  それを無礼だと思わない

・「してあげた」ことをは”ない”または”当然”とされたら、

  無礼と怒り、

  事あるごとに思い出し、幾度も怒りの炎を燃やす

 

 

 

人間には

こういう基本プログラムが入っているように思う。

 

 

 

 

 

 

その「基本プログラム」に

様々な体験や視点や考え方を学び

 

いかに幾通りものケースがあることを知り、

別の出力反応を入力(プログラミングの改定)していくか、

 

これが人生において大事なのでは、と思った。

 

 

 

 

 

 

 

人間の「基本プログラム」だけだと

たいてい不満や苦が生じるようになっていると思っている。

 

 

 

 

 

 

「基本プログラム」の背景には、

 

・モノサシ(自分だけが正しいと思っている、常識・価値観・経験値など)

・無知(経験が少ない、知識がない、視野が狭い、その無知さえ自覚がないなど)

 

がある。

 

 

 

 

 

つまり、

プログラムを変えればよい、と書いたが

プログラム云々ぬきに

 

・自分だけのモノサシでみていないか

・自分は無知で物事をとらえていないか

 

ととらえられたら

問題と感じることは激減すると思っている。

 

 

 

 

 

 

 

今日も前のことに1つ1つにベストを尽くし

歩いていきたいものですね。

 

あることで焦っていた自分に起こったこと。

 

 

生活を整える、

日々を整える、

 

大切さを感じたエピソードがあった。

 

 

 

 

 

 

 

色々な本を読んでいた頃。

仏教の本も、数冊だが読んでいた。

 

「八正道(はっしょうどう)」=日々を整える、

というものがあるらしい、

とまでは分かったのだが、

 

「これでは楽にならない」

「こんな普通なことで楽になるはずがない」

 

と、長続きもしないのに

そんな風に考えている自分がいた。

 

 

 

 

 

 

今の時点の自分が思うに、

あくまで”生意気”な私見だが、

 

八正道より先に

・徹底的に「思考」を見る

・「思考」に気付く

 

をしたほうが、

入口としてはよりベターではないかなぁと

思ったりする。

 

 

 

 

 

 

 

朝に、

先に内側から雨戸をあけるか、

それとも、外に新聞を取りに行くか、

 

そんな違いかもしれないが、

 

私が思うに、

雨戸を先に開けた方が、

”目が覚めやすい”

ような気がするという感じだろうか。

 

合った方をすればよいとは思う。

いずれ平行してやることになるとは思う。

 

 

 

 

 

さて、

家族に

「ほぼ怒らなくなった」と言われたばかりなのに、

先日、イライラっとしたことがあった。

 

 

 

 

 

閉店間際のスーパーでのこと。

 

レジに並ぶ際、

たまたま後ろの人が

混んでいないのにぴったり後ろにいた。

 

レジに移動してからも至近距離、

その様子で何かおかしいなぁとは思っていた。

 

最後に、

おまけにカートを手放し私にぶつけ、謝罪もない。

 

えっ?

とさすがに振り返ると、

(理由は不明なものの)

ぶつけたのを分かった様子でいて、フンっ、とした顔でいる。

 

ここまで書いて気付いたが、

これは怒っていい案件かもしれない(笑)。

 

いや、怒らないとしても、

不快な感情がさすがに一瞬は出ていい状況だったように思う。

 

 

 

 

 

 

家への帰り道、

思考を眺めていた。

 

珍しく怒りがでたなぁ、

まだ怒りの感情が少し残っているなぁ、

どうして今日はイラっとが出てしまったのかなぁ、

昔はもっと怒っていたのでそれよりはずっといいが・・・

 

そう、

どうして普段は怒らないのに

イライラしたのだろうと考えていた。

 

 

 

 

 

 

はっ!と気が付いた。

 

焦っていた、急いでいたんだ!

 

 

 

 

 

 

閉店間際に、

 

自分も忙しく自分の心も見つめず、

はやく早く!と

 

心ここにあらずだったと。

 

 

 

 

 

 

そうだった。

 

最近は、

平安でほぼいられるのに

 

感情がでるのはいいとしても、

それに巻き込まれるときがある。

 

 

 

 

たいてい

焦り、急ぎ、余裕がない、状況があった。

 

自分も見つめず、

自分の内側から出ているので

外に反応してしまう。

 

 

 

 

 

 

そもそも閉店間際にいかないように

 

焦らず、急がず、余裕があるよう

生活を整えるべきだった・・・

 

と気が付いたのだ。

 

 

 

 

 

 

日々修行。

 

生活を整える

「八正道」のような実践が

大切だなぁとつくづく思った。

 

 

 

 

 

補足で、

あとでよく考え

自分のモノサシや思い込み、無知もあったような気もした。

 

・私は、パーソナルスペースに人が入られるのが大変嫌なタイプだったのかもしれない

・後ろの人は、パーソナルスペースに入るのを気にしないタイプだったのかもしれない

・後ろの人は、家族といたので家族に意識がいっていたのかもしれない

 

 

 

 

 

 

いずれにせよ、

 

世は、結局、

全てが自分の心により変わり、大いなる先生となる。

 

万物に感謝。

学びに感謝。

成長に感謝。

 

 

 

 

 

 

 

 

八正道: 人生の真相である苦から脱する方法の一つの実践方法

     八種の正しい生活態度↓