●「自分がいる」、「自分が大事」 その思考が苦の原因ではないのか | 今にある -感謝、笑う門には福来る、後悔より未来へ1mm-

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仕事、本、感じたこと、学び、悟り、等
いろいろ書いています。

油断していると

自分の外にすぐ出ている。

 

気付いて

自分Aを見つめる自分Bに戻り

自分を見張りつづけるように

努めている。

 

 

 

昨年よく、

・モノサシ

・比較

・思い通りにしたい

・自分が大事

 

という視点や思考が

苦しみを産んでいると書いてきた。

 

 

 

今、少し違う視点で

考えがまとまってきた。

 

結局のところ

・自分がいる、と思っている

・自分が大事、と思っている

 

これらが苦しみの原因ではないかと

思うようになってきた。

 

 

 

というのも

先に書いたモノサシ等は、

「自分」があっての「欲」だと思った。

 

 

 

先の4つを言い換えると

・自分のモノサシ基準であるべきだ

・人より、そして、以前の自分よりも、比較して優れたい

・自分の思い通りにしたい

・自分を大事にしてほしい、好かれたい嫌われたくない

 

となると思う。

 

 

 

すべて、

「自分」がいて

「自分を大事に重要な状態にしたい」

と思っている。

 

しかし通常の人は、

当然のごとく

これで生きている。

 

自分はいる!

自分を大事にしてほしい大切にしてほしい!

 

果たして、

それは本当だろうか。

 

自分Aがそう思い、

それを見ている自分Bが

本当の自分だとしたら?

 

さらにはそれらすべてを包括する

大いなる自分Cが

自分の源だとしたら?

 

 

 

 

大事にすべき「自分」自身は

本当にいるのか?

 

「自分」がいるいるいる、

と思っているから

おかしくなるのではないのか?

 

 

 

 

「自分」がいると思っているから

思い通りにしたい

望み通りにならない

勝ちたい

優れたい

馬鹿にされた

負けた

大事にされた

大事にされなかった

・・・

で四苦八苦しているのではないのか?

 

 

 

今日、ふっと出てきた

マイナス思考をみていたら

 

・あの時のあの人の態度は?

・店員さんの不手際で買い物ができなかった

・自分ってダメだなぁ

・あーもう大変 等

 

自分が嫌なことをされた

自分を馬鹿にされたのでは

自分はもっと理想通りでありたい

自分は大変忙しい

 

と自分自分自分と思っていた。

 

 

 

嫌なことをされた→ 自分を大事にされたかった

定員さんの不手際→ 大事な自分に損をさせないで欲しい

望み通りになれ → 自分はもっとより良い人間なんだ

大変で忙しい  → 自分はゆったりしたい、が侵されている

 

と、結局

 

モノサシと自己重要観 が満たされず

思い通りと自己重要感 が満たされず

欲と自己重要感    が満たされず

思い通りと自己重要感 が満たされず

 

に当てはまっていた。

 

 

 

今日の気づきは、

「自分」がいることにこだわっている自分、

「自分」が大事で思い通りにしたい自分、

これが苦を感じる思考の原因ということ。

 

ただ、

人と交流する

自然と交わるなどで

気分は変わるとは思っている。

 

根本的な思考自体との向き合い方について

また自分と向き合いつつ

よりよく生きていきたいと思う。

 

 

 

 

皆様もよい1年でありますように。