人間は常に不完全を感じる生き物なのかしら・・・・
偶然か必然か、そんな風に考えさせられた映画を続けて2本鑑賞しました。
どちらも再見だけど、以前はそんなこと考えもしなかった。。。
今回は1つめの作品「アマデウス」を。
ご存知、モーツァルトの晩年をサリエリ視点で描いた作品。
いやはや。なんとも。。
この年齢になって見ると、改めてズッシリ来ますわ💦
オーストリア皇帝に仕える宮廷楽長の座にまで昇りつめておきながら、尚も才能を欲し、喝采を欲するサリエリ。
はたから見れば順風満帆だし、本人もそう思っていたに違い無い。
彼【アマデウス】が現れるまでは・・・
音楽のために自分を厳しく律した来たサリエリにとっては、女にもお金にもだらしなく傍若無人にふるまうモーツァルトが許せなかったんでしょうねぇ・・・しかも、そのモーツァルトの方がサリエリが欲しくて欲しくて堪らない才能を持っていたのだから。
サリエリのセリフで、
神は私が欲しい才能ではなく、モーツァルトの才能を見抜く才能だけを与えた。
といったものがありまして。
ああ、これだわ💦と、なりました。
自分の理想と現実の不一致を思い知らされる苦しみ。
自分の才能と憧れの才能の不一致を知った時の苦悩。
映画には出て来ないけど、サリエリだって十分にすごい人なのよ。
だって、教え子にベートーヴェンやシューベルト、そして私の愛するフランツ・リストというそうそうたる顔ぶれ。
彼には、他者の才能を見抜く才能、教える才能、導く才能があったワケです。
でも、彼が望んだのはそちらの裏方ではなく、華やかな表舞台で天才と喝采を浴びる、まさにモーツアルトのポジションだったのでしょうねぇ。
自分の才能と違うところで生きようとすると、違和感も出るしお悩みも葛藤も出て来るワケです。
とはいえ、この映画(元は戯曲)によりサリエリの名が世に知れ渡り、彼の作品も再評価されて世界中で演奏されることになり・・・あの世のサリエリは喜んでいるでしょうか。
映画では、サリエリがモーツアルトを死に追いやったというストーリーですが、実際のところは不明。
ただ、当時からサリエリ犯人説が噂となっていて、サリエリはそのバッシングに随分と苦しんだとか・・・・
サリエリはモーツアルトの才能の一番の理解者であり、熱狂的なファンだったんだろうな。
大好きで、憧れで、でも憎い。
殺したいほど憎い。
でも愛している。
この辺りの複雑に交錯する想いを表現する、サリエリ役のF・マーリー・エイブラハムの高い演技力に脱帽です。
(この作品でアカデミー主演男優賞受賞)
サリエリが自身の才能を受け入れ、嫉妬や憎しみではない感情でモーツアルトを受け入れていたとしたら・・・・
【自我】の資質を別のかたちで活かす方法を探っていたら・・・
そんな風に考えてみたり、
そして、
やはり人間というのは、つねにどこか「不完全」を感じていて、その穴を埋めるべく苦悩する生き物なのか、とも考えてみたり。
久しぶりの【アマデウス】鑑賞で、そんなことを考えてみました。
それにしても素晴らしい役者さんの素晴らし演技を見るって、本当に至福のひと時。
才能万歳✨