武照に会うために、感業寺に通っていた高宗ですが、
既に、高宗には、后妃が数人いました。
后妃の中でも、ぶいぶい言わせていたのが王皇后と蕭淑妃の二人。
王皇后のお父さんは王仁裕といい、太原の王氏一族で超一流の名門でした。
お母さんは柳氏といって、こちらも王氏に負けない名門でした。
当時、家柄が重視されていたので、
王皇后が王妃に就くことに、誰も異を唱える人はいませんでした。
ただ、王皇后がどうしても得られなかったのが、子どもです。
皇后になったら、後継ぎとして、男の子をもうけなければいけません。
高宗と王皇后が結婚してしばらく経っても、王皇后が懐妊しないので、
太宗は高宗のもとに、子女を送りました。
すると、王皇后以外の女性との間に、李治は次々と子どもを授かりました。
李治との間に、第一子・李忠を授かったのが、劉宮人です。
続いて、鄭宮人が李孝を、楊宮人が李上金を授かりました。
そして、蕭淑妃が第四子・李素節を授かりました。
ところで、淑妃は後宮の女官の最高位で、皇后に次ぐ地位です。
→ 唐の時代の妃妾制度については、初めての宮廷入りをご覧ください。
何故、蕭淑妃より先に男の子を授かった三人の宮人は、
淑妃の座に就かなかったのでしょうか。
実は、この三人の宮人について、史書に詳しく記されていないんです。
少なくとも、劉宮人は微賤出身だったことが判っています。
もしかしたら、鄭宮人や楊宮人も名家の出身ではなかったのかもしれません。
三人の宮人より、蕭淑妃の家柄のほうが優れていたので、
蕭淑妃に淑妃の座が与えられたんだと考えられます。
淑妃の座に「就かなかった」というより、
「就けなかった」というほうが正しいのかもしれませんね。
王皇后と蕭淑妃の二人の話に戻しましょう。
王皇后が子どもを授からなければ、第四子・李素節が皇太子になります。
李素節が皇太子になったら、生母である蕭淑妃が権力を握ってしまいます。
王皇后が皇后の座と権力を保つためには、子どもを授からなければいけないんです。
「陛下の子どもを産みたい」と願う王皇后。
「王皇后に、陛下の子どもを産ませるものか」と阻む蕭淑妃。
「このままでは、皇后の座を蕭淑妃に取って代わられてしまう」
と焦った王皇后は、劉氏が産んだ第一子・李忠を養子に迎えました。
そして、「李忠を皇太子にするべきです」と言って、蕭淑妃に対抗しました。
王皇后と蕭淑妃は、寵愛はもちろん、皇太子問題でも争い、
火花をバチバチと散らしていました。