太宗の崩御 | 歴史で旅する

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皇帝が高官と一緒に政治を行う場所を、といいます。

 

皇帝が朝廷に出席するのは、なんと、朝の5時。

もちろん、部屋着で朝廷に出席するわけにはいかないので、

4時には起床して、身支度をしていました。

 

では、高官はというと、

皇帝が朝廷に出席する前に、朝廷に着いて、整列していなければいけません。

もちろん、高官も部屋着で出席するわけにはいかないので、

3時までには起床して、身支度をしていました。

 

朝廷という言葉の由来は、朝の早さだといわれています。

 

当時は時計がないので、

壺の底に穴をあけて、こぼれ落ちる水の量で、時間を判断しました。

2時間おきに太鼓を叩き、25分おきに鐘を鳴らして、時間を知らせていたそうです。

 

暑い夏であっても、寒い冬であっても、

太宗は一日も欠かすことなく、朝廷に出席していました。

 

しかし、朝廷に出席できないほど、体調を崩し、

太宗は「もう長くない」と感じ始めました。

 

そして、皇太子・李治に皇帝の座を譲る準備をしました。

 

まず、太宗は、李治に「帝範」を渡しました。

「帝範」は、皇帝がとるべき行動の手本を記したもので、太宗自ら執筆しました。

 

次に、長孫無忌を検校中書令、知門下尚書事、門下省事に任命し、

・中書省(詔勅の立案や起草)

・門科省(詔勅の審議)

・尚書省(詔勅の実行)

の運営管理を任せました。

長孫無忌に、詔勅の全てを任せたんですね。

 

最後に、李勣を畳州(甘粛省甘南チベット族自治州)都督に左遷しました。

 

【2020年10月23日追記】

「チベット族自治州」というと、長安から離れているような気がしますが、

甘粛省は、お隣なんですね。

 

 

もちろん、李勣が何か悪いことをしたわけではありません。

 

「左遷された李勣を高宗が都に呼び戻したら、

李勣は李治に感謝して、しっかり仕えてくれるだろう」

と考えたんです。

 

李治が即位する準備を整えると、太宗は息を引き取りました。

 

太宗が崩御したことを知った徐充容は、悲しみに暮れ、体調を崩しました。

 

徐充容の妹が看病し、薬を飲むように勧めましたが、

「薬を飲んでも、助からないことは知っています。

無駄な抵抗をせずに、少しでも早く、陛下のもとに逝かせてください」

と言いました。

 

一年後、徐充容は亡くなりました。

 

亡くなった後、徐充容は賢妃の位を追贈され、

徐充容の妹は、婕妤の位を授けられました。