こんにちは。今年も6分の1が終わりました。
2月は特に早くて3月、4月と忙しくしていると半分もあっという間に過ぎ去っていくことでしょう。
時間の加速度がハンパないですな。(笑)
さて今回は武将たちのふるさと②ということで全国へ散らばっていった東海地方の武将たちの夢の跡をご紹介します。
まずはこちら。稲沢市西溝口の成願寺に残る溝口城跡です。
車でよく通っていたのに気づきませんでした。
石碑が残るのみで地形からは城や館の名残が想像できませんが、ここは溝口秀勝公生誕の地と伝わります。
あまりピンとこない方が多いかもしれませんが、彼は100名城にも選ばれた3匹の鯱で有名な新発田城を築城した人物なのです
溝口城址と読めます。
織田配下の武将として丹羽長秀の下で活躍します。
そしてこちらがその親分、米五郎左生誕の地と伝わる屋敷跡です。
名古屋市西区児玉にありまして戦災で焼けなかったのか周辺は道が狭く車で近づくのはやめた方がいいと思います。
私はコインパーキングに入れて15分くらい歩きました。
大正六年建立ですから戦災に遭っていないのですかネ。
丹羽五朗左というと篠田三郎さんが浮かんでくるのは私だけでしょうか?
すぐ近所には名古屋城三の丸にあった志水屋敷の車寄せを移築改修したという門がありました。
こちらは現在個人宅になっていますが名古屋市の有形文化財で江戸中期の建築だそうです。
過去に3回くらい来ていますが気づきませんでした。
現在は対面が更地になっているので全体が見やすいですよ。
同じ西区でワープして比良の光通寺です。
ここは悲運の武将、佐々成政公生誕の地、比良城跡なのです。
このあたりも道が狭く古い感じがよく残っているところです。
二重の堀があったそうですが現在は遺構を見ることができません。
お寺の一番奥の隅に石碑が残っています。
有能な武将だったため秀吉、家康からは警戒されたのでしょう。
お気の毒です・・・
今度は北に飛んで愛知県江南市の久昌寺(きゅうしょうじ)へ行きます。
こちらは武将という武将ではないのですが、どちらかというと商人でしょうか、織田配下の生駒ファミリーの邸宅跡と菩提寺です。
生駒氏の詳細はこちらをご覧下さい。
生駒家は織田信長と秀吉と蜂須賀正勝を結んだ尾北の豪商なのです。
戦国武将が勢力を拡大するにあたって商人の力も絶大なるものがあったに違いありません。
生駒氏歴代のお墓です。
一番右が信長の最初の奥様、吉乃さんのお墓です。
手を合わせて参りました。
織田信長公室と書かれています。
吉乃さんは、信忠、信雄、五徳姫を生んでいるのである意味戦国武将と同格くらいの人物かと。
29歳の若さで亡くなってしまうので残念でなりません。
生駒氏の屋敷跡(小折城跡)です。
信長というと清須や岐阜がクローズアップされがちですが天下取りはここから始まったといっても過言ではないのです
武功夜話という書物には織田信長と蜂須賀正勝がこの生駒屋敷に出入りしており、その話を聞きつけた秀吉が吉乃の執成しで信長と蜂須賀正勝に出会ったと書かれています。
一説には草履を温めた話は清州ではなくこの小折城であったとも言われています。
吉乃さんの邸宅跡です。
若き日の信長はこの薄幸の未亡人をたいそう気に入り(わかる気がします)、三日と空けずに会いに行ったそうです。
どんな女性だったのか私も会ってみたいです。
最後に岐阜市茜部へ飛んで名人堀久太郎こと、堀秀政公生誕の地です。
石碑と案内書きが残るのみです。
若くして信長の小姓になり、信長亡き後は秀吉政権の中枢を担うようになります。
長久手の戦いでは秀吉方として唯一負けなかった武将として知られていますネ。
戦いが上手く政務も卒なくこなすことから名人の異名をとりますが、残念なことに39歳の若さで小田原にて亡くなってしまいます。
ここまでありがとうございます!
如何でしたでしょうか。
東海地方は武将の宝庫ですね。
でも2回目にしてネタ切れ感は否めません
三河方面や美濃方面へ行ったときに忘れずに拾ってきますので③までしばしお時間を。
ではまた次回
*先日仕事で新城の山奥にある紋屋さんという古民家宿に行ってきました。阿寺の七滝の近くで不思議と石垣が多く見られる所でした。
ランチもいただけるので是非
コーヒーが美味しかったです