こんにちは
早くも3月がスタートしておりますが忙しさにかまけていると気が付けばゴールデンウィーク、そしてお盆・・・と半年以上が無意識に過ぎ去っていく昨今であります。
イカン、イカン、好きなことを今やらねばきっと後悔するぞと自分を脅すように今日も散策に向かうのでした
というわけで今日は愛知県の尾張西部の激戦地をご紹介します。
まずはこちら。
一向一揆での戦いの激戦地となった愛西市の古木江城址です。
現在は富岡神社になっていて遺構は何もございませんが、かつてはこの辺り一帯にかけて数万の方々が亡くなったのかと思うと手を合わせずにはいられません。
左の建物は立田道の駅です。
説明書きです。
信長にとって伊勢湾海運を妨害する本願寺勢力は目の上のタンコブ(彼らには彼らの利権がありますが)で一向宗を分断するためにここを砦としたのですが反対に攻められて弟の信興はご自害・・・。
砦の南に鎮守として建てられた祠だそうです。
弟の自害を知った信長は烈火の如く怒り狂ってその後悪魔の所業を断行します。動くものは全て殺せと・・・
中央に見える林が古木江城址です。
現在は周辺が田畑となっておりますが、室町時代以前は島が点在するような河口のデルタ地帯だったようです。
枇杷島、津島、長島、中島、飛島、羽島等々。
今からは想像がつきません。
次にここから数キロ東へひとっ飛び
海部郡蟹江町の蟹江城址へ向かいます。
こちらも周辺は開発されて遺構は本丸の井戸跡を除いて何もありません。静かな住宅地です。
小牧・長久手の戦いの一環として滝川一益(城方)VS徳川・織田連合軍(攻め手)で戦端が開かれました。
徳川軍は家康を筆頭に、四天王と石川数正、水野勝成、服部半蔵等々早々たる顔ぶれが参戦しております。
戦い全体を通して、最後まで大軍の投入が間に合わず秀吉方の負け戦となってしまったことは周知の通り。
蟹江町のいわれです。蟹が多かったので蟹江だそうです
地名って案外そんなもんですよね。
周辺は道が狭く車では入っていけないので少し離れたところに停めて歩きました。
蟹江城は熱田、津島、大野と並んで尾張では良質な湊とされたため伊勢湾海運を牛耳るためにも押さえておきたいところだったかと
こちらが本丸跡の井戸です。
中を覗いたのですがよく見えませんでした。
井戸は跡形もなく消え去ることはないと思うのですが。
発見できて水神様も喜んでいると思います。
たまに仕事先で井戸を壊してほしいと簡単に言われる方が見えますがお祓いに立ち会って頂いてから撤去するようにしています。
お祓いもせず竹の生抜きもせずに井戸を埋めておかしくなった人を知ってますから。
水郷地帯や海抜が低いところでよくみられる造りです。
豪雨の際にこれだけの高さでも確保できると違うのでしょうね。
一般的にコンクリート基礎よりも石の方が湿度には強いとされていますので石垣が用いられます。
すぐ西に蟹江川が流れています。堀もあったとは思いますが、この辺りも湿地帯のような地形で川筋も当時とは異なると思われますので現在の地形から遺構を読み取ることが困難です。
ちなみにこの川を少し下ると一昨年ユネスコ文化遺産に登録された須成祭りが開催される辺りに出ます。
今年は絶対見に行こう
城址周辺の地名はズバリ「城」。
最後に同じ蟹江町にて西尾張中央道へ出ます。
激戦地ではないのですが以前から行ってみたいと思っていました。
都で平清盛に敗れて養老から船で川を下りこの辺りで島に立ち寄ったとか。陸路は危険なため、さらに船で弥富の辺りまで逃げていきます。
源氏の棟梁、義朝公が立ち寄った島なので源氏島というそうです。
この辺も源平時代は島が点在するデルタ地帯で幾筋もの河川や水路が入り組んでいたようです。
金魚で有名な弥富で船を降りて荷物を下ろしたところが「荷之上」という地名で残っています。
ここから先は勝手知った土地、と思ったかどうかわかりませんが、知多半島の野間で無念の御最期を迎えます
源氏塚のある公園には三猿ならぬ三蟹がいました。
「挟まざる、泡吹かざる、食べられざる」・・・
よくわかりませんが、すみません。
ここまでありがとうございます。
如何でしたでしょうか。かなりローカルで恐縮ですが拙宅から近いので自分のお尻を叩いて行ってみました
(近いと案外行かないので)
蟹江は尾張温泉があるので買い物ついでに足湯に行きます。
天然温泉のため硫黄臭いですが凄く気持ちがいいものです。
お店も多いのでお近くに来た際には是非。
ではまた次回。
拙宅の梅が咲きました。
奥ゆかしい香りが何とも言えません。