刈谷城址と周辺 | 散策侍

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様々な歴史建造物を建築目線で再確認するブログです。たまに美味しいものなども・・・

こんにちは!!爆  笑

ここのところ三河方面での仕事が入っているので合間に刈谷城址へ行ってきました。以前にも一度行ったことはあるのですが今回はさらにじっくりと見てきました。目

刈谷市のホームページより地図を印刷して散策開始です。走る人

 

下矢印格好をつけて1711年頃の地図を手に歩き始めたのですがどこを歩いてるのかサッパリ分からなくなりました。あせるてへぺろ

 

 

下矢印ので、こちらの地図に変えました。(明治初年の城郭図に現在の地図を重ね合わせたもの)車は亀城公園に駐車して(無料です)、東の多門坊口門を目指します。

 

 

下矢印今の八幡町あたり、亀城小学校の裏手付近に多門坊口門があったようですが跡も残っていません。サーチ

 

 

下矢印多門坊口門付近から南下すると右手に椎の木屋敷跡があります。

 

 

下矢印ここは家康の生母、於大の方が松平を離縁されて久松に嫁ぐまで暮していた場所です。

 

 

下矢印初代、刈谷城主の水野忠政の娘として三河の松平広忠(家康の父)に嫁ぎましたが、兄の信元の代になると松平から離れて織田に与したため松平から離縁されて刈谷へ里帰りしてきたのです。

 

 

下矢印ちょっとした広場になっています。於大はここで何を思って暮らしたのでしょうね。さぞ不安なことだったと思いますが、戦国の女性は強いですよね。

 

言葉は悪いのですが「政争の具」として使われて一生を終えたようなものですから現代人のような「幸せ」とか「楽しい人生」とか、そういう尺度で量ることはできないと思いますが、せめて晩年は楽できたのかなァなんて考えてしまいます。

 

 

 

ご存知の方も見えると思いますが、兄の信元が武田との内通を疑われて大樹寺にて殺害されましたが於大はこのことで終始兄の助命嘆願に協力的ではなかった石川数正を恨んでいたそうです。

再婚相手の久松俊勝も家康に怒り心頭して出奔してしまいムキー殺害の実行犯、平岩親吉は涙して信元に詫びたそうです。そして於大は一旦家康に引き取られることになります。この一連の出来事が後の信康・築山事件に繋がっていくのではという説もあります。

 

下矢印「信康をお斬りなさい」と言ったとか言わなかったとか・・・そして数正の追放へと・・・於大さん、真相を教えていただけませんかね~。メモ

 

 

下矢印綺麗なトイレがあったのには驚きました。びっくり

 

 

 

下矢印更に南下すると町口門跡があります。この門によって城下町と城内が隔てられていたのです。お役人以外は札がないと通行できず、16時以降は閉じられてしまいます。時計

 

 

下矢印この辺りに町口門がありました。向こうが城下町、手前が城内です。

 

 

下矢印ここで北西に進路を変えて城内への大手通りを歩きます。走る人

奥がお城です。

 

 

下矢印土井氏が刈谷藩主になってから開かれた藩校の文礼館跡です。

現在は城町図書館になっています。

 

 

下矢印フェンスが邪魔ですが大手門跡です。現在の亀城小学校の校庭あたりにあったそうで、通れたのは藩士のみです。

 

 

下矢印冠木門をくぐって右へ90度曲がると大手門があり、その先に御殿がありました。

先に外堀があってその先に大手門があったそうです。

 

 

下矢印亀城小学校の隣の郷土資料館です。無料で入館できますので入ってみることに。因みにこの建物は小学校の旧本館で、木造瓦葺の2階で(一部はコンクリート造)昭和初期の洋館造りになっています。

 

平成11年に国の登録有形文化財となりました。

 

 

下矢印玄関にいきなり鎧が!カブト詳細は不明とのことです。えー

 

 

下矢印昭和な感じがいいです。色々展示品もありましたが時間も気になるのでスルーします。新幹線

 

 

下矢印郷土資料館の敷地にある仕切門跡です。

仕切門をくぐると三之丸です。

 

 

下矢印さらに直進して二之丸一ノ門あたりへ。現在の城町交差点辺りです。役に立たないと思われた古地図も時折チェックすると、このあたりに米蔵が、厩が、土蔵が、小屋が、という感じで結構楽しいではありませんか!口笛グッド!

 

 

下矢印交差点のすぐ脇に城址の石碑があります。

この付近は二ノ丸跡になります。

 

 

下矢印城町の交差点を渡ると堀跡があります。ただ都市計画に沿って後から整備されていますので大きさなどはあまり参考にはならないかと。位置はおおよそ合っていると思われます。

 

以前に岐阜の加納城址へ行ったときに案内看板を見て水に浮かぶ要塞のように感じたことがありますが、ここ刈谷城もそんな感じです。

 

 

下矢印早いですが春になると綺麗に桜が咲き花見の人で賑わいます。桜

お店も出ていたと思いますよ。

(こちらの画像はネットより拝借しております)

アッという間に春もやってくるのでしょうネ桜

 

 

 

下矢印気になる高低差が見えてきましたが焦らずやり過ごして西へ進みます。走る人走る人走る人

 

 

下矢印刈谷球場と公園の間の道を通ってドン突きに出ます。昔はここから先が海で水ノ手門があったと思われる場所です。船衣ヶ浦(ころもがうら)という遠浅の海で今の衣浦(きぬうら)の由来となっています。ここから1km程南へ行くと港町という信号がありますが刈谷は昔、刈屋湊といって三河でも有数の大きな湊町で水野氏の資金源となる重要な拠点でした。¥¥

 

はじめは対岸にある東浦の緒川城を拠点としていましたが手狭になったのか刈谷に城を造り藩主は三河の譜代大名が務めましたが明治4年(1871年)に廃藩となり破却されました。

 

 

下矢印かつては海に降りるためであったであろう階段があります。現在は逢妻川、境川、皆瀬川、その他の水路などが合流して「川」となっていますが昔は「入り江」だったのです。因みに今でも潮の満ち引きを受けますのでハゼやセイゴも釣れたりします。うお座

 

 

下矢印かつての海岸線から本丸には向かわず、南の市原稲荷神社へ向かいます。

車で通ると看板は目にしますが今回初めてお参りします。

 

 

 

下矢印創建は653年と云いますから結構歴史があるのですね。知りませんでした。残念なことに桶狭間の後、鳴海城からの今川軍の敗走兵によって放火され燃えてしまったので5年後に再建されたそうです。

岡部殿、そんな嫌がらせしなくてもいいのに・・・えー

 

 

下矢印思いのほか立派でした。(失礼ですが)お願い

ここは初代刈谷藩主、水野勝成が奉納したと言われる獅子頭があるそうです。また歴代の藩主はここにお参りに来たそうですよ。

刈谷市のご当地キャラはカツナリ君というそうです。

 

 

下矢印気になる文言を発見。大切な三つの「つ」

「つづけること」、「つながること」、「つたえること」。

何だかいいことを聞きましたので足を運んでよかったです。合格100点

 

 

 

下矢印緒川口門跡を探しに住宅地に入っていきましたが分からなかったので再び本丸に戻ります。二ノ丸から本丸跡を見上げます。

 

長くなりそうなので今回はここまでとします。

ここまで読んで下さってありがとうございます。

次回は本丸~楞厳寺(りょうごんじ)です。

 

余談ですが水野信元という人物、調べてみるとなかなかの戦上手で、朝廷や他の大名にも覚えが良かったそうです。びっくり

父、忠政亡き後、いち早く織田と手を組み、半田、武豊、南知多、常滑と勢力を伸ばし知多半島の覇者となった後にも数々の戦に従い三方ヶ原では野戦に反対し臆病者と罵られても籠城を主張します。

果たして敗走すると徳川軍をまとめて浜松に引き上げ松明を掲げて武田軍に隙を与えなかったとか。後に信長は自分の非を認め佐久間信盛を首にして、信元の末弟の忠重を刈谷城主にします。時代の犠牲者とでもいうのでしょうか。お気の毒であります。ショボーン

 

 

下矢印さらに余談ですが。先日、愛知県芸術劇場ディズニー・オン・クラシックを観に行ってきました。満員の会場が一体となって盛り上がっていて、あらためてウォルトディズニーという人の素晴らしさと人を楽しませる職業に就いておられる方々のプロフェッショナル魂には感銘を受けます。まさに「魔法の夜の音楽会」でした。クラッカー音譜

 

ではまた次回。おしまいバイバイ