墨俣城 | 散策侍

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こんにちは!今日は岐阜県大垣市の墨俣城をご紹介します。

現在は河川工事された長良川の堤防道路沿いに天守閣を模した歴史資料館が建てられていますが、秀吉が建てたと云われる当時の一夜城は砦のような体をなしていたと思われます。

 

 

先日は展示品の金シャチが盗難未遂にあったとかでチョット有名になったでしょうか?

 

 

織田信長の美濃攻めの際に、配下だった木下秀吉が指示をして建てられたといいます。1566年に建てられたといいますから桶狭間の戦いの6年後ですね。その頃、この土地は美濃の斉藤氏の領内で、重臣の佐久間信盛や柴田勝家らも築城に挑戦したそうですがことごとく蹴散らされてしまったそうです。斉藤氏としても自国領内に砦を築かれたのでは威信にかかわり求心力の低下に繋がります。もっとも信長はそれを狙ったのかもしれません。

 

当時の砦の絵図です。

 

 

馬防策(実際には現代のフェンスのような侵入を防ぐもの、湿地のため馬での移動は困難と思われます)も復元されています。

 

 

 

築城は敵地のため困難を極めたとのことですが、秀吉は予め長良川上流で材木を切って筏にし、それを流して船溜まりに入れ必要な物資を乗せて順番にリレーしたそうです。今でいうプレカット材を運ぶような感じですね。低湿地のため容易には近づきにくく、まさか本気で砦を造るわけはないと思われていたところに一夜にして砦が現れたので敵も驚いたことでしょう。平成3年に完成した歴史資料館に登り周囲を見渡してみました。

 

東面、一宮タワーが見えます。

 

北東方向、中央に金華山(稲葉山)が見えます。

 

 

山頂に岐阜城が見えます。この城の攻略のために墨俣城は築城されました。

 

 

南面、お寺の屋根がいくつか見えます。

 

 

ここに砦が築かれたことで急速に美濃斉藤氏の勢いは衰えます。信長の戦い方に共通することですが、拠点や敵陣を陥落させるために周囲にいくつもの砦や城を築き一方向からだけではなく面で経済的、心理的圧迫を与えるやりかたが挙げられます。桶狭間然り、長篠然り、美濃攻め然りです。この砦は岐阜城に睨みを効かせると同時に、大垣、垂井方面にも調略の手を伸ばすことができます。一方、北の小牧山からも岐阜城に睨みを効かせ、犬山城からも東農地方の豪族に睨みを効かせることができます。このやり方で敵を分断し、また心理的にも複数方向から監視することにより焦りを生じさせ冷静な判断を鈍らせる効果もあったと思われます。

 

 

秀吉も命懸けでこの砦を造り織田家中で出世していったのです。

 

 

出世を陰で支えたのは秀吉が無名時代からの盟友だった前野長康、蜂須賀正勝、そして弟の秀長だったといわれています。秀吉配下の人間は建築技術に優れた家臣が多くいます。加藤清正、福島正則、加藤嘉明、黒田官兵衛等々。怖くても尊敬できる現場監督といったところでしょうか。特に最初の3人は股肱の臣で、ご苦労も相当あったはずです。中でも前野長康は関白秀次の件に連座して自害してしまったそうです。

 

実際にどのように建てられたのか、どんな攻防があったのか、今となっては長良川の流れだけが知っているといったところでしょうか。

 

 

ではまた次回。