8月15日で戦争は終わったわけではない! | 井上政典のブログ

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 歴史ナビゲーターの井上政典がお贈りする祖国日本への提言です。
 
 ご意見は賛成反対を問わずどんどん書いてください。

 ただし、社会人としての基本的なマナーは守ってくださいね。

 ほとんどの日本人が8月15日の玉音放送を聞いて、武器を下において戦争が終わったと勘違いされていると思います。

 

 もちろん他の国に比べれば天皇陛下の終戦の詔は重く受け止められ、それによってほとんどの部隊が戦闘を中止しました。

 

 それでも装備十分、士気旺盛の関東軍には「まだ俺たちは負けていない」という気概の将兵がたくさんいました。不穏な空気を感じて、大本営は、大陸の関東軍に宮様を天皇陛下の代理として直接命令を伝えに行きました。

 

 それにより各部隊は粛々と武装解除に応じ、各部隊は武器を一か所に集め、目録を作りました。

 

 これが満州における悲劇の始まりでした。停戦はソ満国境ではなく、8月9日から侵攻を始めたソ連軍は抵抗できない日本軍をしり目に民間人の虐殺、強姦、略奪を繰り広げたのです。当然、それは8月15日を過ぎても続きました。

 

 福岡県二日市にある二日市保養所では引き揚げてきた婦女子の性病及び強姦による妊娠中絶を行う施設を作り、そこで施術を行いました。それは侵攻してきたソ連兵に強姦されて妊娠したり、性病を写された女性たちの悲哀を「仁」の文字が刻まれている慰霊碑が静かに物語っています。

 

 もしあの時に、駐蒙軍司令官(モンゴル)の根本博中将のように武装解除せずに邦人の安全を確保しつつ南下したら、多くの悲劇は防げたかもしれません。

 

 でも日本の武人は潔く矛を収めたのですが、それが通じる相手ではありませんでした。

 

 弱いと見なしたら、高飛車に来るのが国際常識なのです。日本の武士道が通じる国は少数なのです。

 

 

 ある部隊がソ連からの武装解除を受けていた時にその基地に戻ろうとした陸軍戦闘機がいったん近くの基地で着陸し、下着等を着替え、死に装束でその基地に向かいました。

 

 そして半分馬鹿にしながら武装解除を続けるソ連兵の頭上をすれすれに低空飛行を繰り返し、そして三機が示し合わせたように急上昇し、そして機首を下に向けると急降下し、そのまま地面に激突しました。

 

 それを見ていたソ連軍将兵は真っ蒼になり、「いったいどうしたのだ、あれはいったい何なのだ?」と隣にいた将校が、「あれは空の侍の切腹だ」と答えると、ソ連軍将兵はその後日本兵を恐れて粛々と武装解除をしたそうです。

 

 

 そして79年前の今日、つまり終戦の日の三日後、ソ連軍は千島列島の占守島に攻撃を仕掛けました。池田末男大佐は、次のように訓示します;

 

 >>>引用開始

 

 われわれは大詔を奉じ家郷に帰る日を胸にひたすら終戦業務に努めてきた。しかし、ことここに到った。もはや降魔の剣を振るうほかはない。

 

 そこで皆に敢えて問う。諸子はいま、赤穂浪士となり恥を忍んでも将来に仇を報ぜんとするか、あるいは白虎隊となり、玉砕もって民族の防波堤となり後世の歴史に問わんとするか。赤穂浪士たらんとする者は一歩前に出よ。白虎隊たらんとするものは手を上げよ。


                — 戦車第11連隊長 陸軍大佐 池田末男、『戦車第十一聯隊史』より

 

 >>>引用終わり

 

 池田大佐は激戦の中、戦車隊の隊長車の中で壮絶な戦士を遂げましたが、9月になるまでその遺体が確認されませんでした。

 

 北方の第5方面軍の司令官だった樋口季一郎中将は、我が国の領土に不当に侵入してくるソ連軍に対し、断固撃破せよと命令を下し、この戦いが始まりました。

 

 戦争は終わっているのですが、祖国を守る軍人たちの矜持を示してくれたのです。

 

 もし、左巻きがいうように攻めてきたら、「腹を割って話し合えばいい」といってソ連軍正面に立っていれば一発の銃弾で即死することでしょう。もし、樋口第5方面軍長が攻撃施与の命令をださず、池田戦車11連隊長が指揮をしなかったら、北海道は北方四島のようにソ連(ロシア)の領土になって、今でも日本には帰ってきていないかもしれません。

 

 攻めてきたソ連軍は3000人以上の大損害でしたが、守る側の日本軍将兵も池田大佐以下、600人ほどの死傷者を出しました。

 

 この戦いにより、ソ連の千島列島攻略は遅延し、戦後のどさくさに紛れての北海道侵攻作戦も雪のように消えたのでした。

 

 戦後の教育で私たちは「命が一番大事」と習いましたが、命よりも大切なものがあることを池田大佐以下戦死された英霊の方々はお示しになっていると思います。

 

 だれだって終戦の報を聞き、もうすぐ家に帰ることができる。家族に会うことができると思っていたさなかの出来事でした。人間一度緊張を糸が途切れるとなかなか元に戻すことはできません。それを先人たちは見事に成し遂げ、ソ連軍の火事場泥棒を防いだのです。

 

 国民に祖国を守る気概があれば守ることができるのですが、その気概がなければどんな優秀な兵器を持っていても防衛はできずに無法者によって祖国を蹂躙されるのです。

 

 そのことをこの8月18日の占守島の戦いを語りつづことによって後世に語り継いでいかねばなりません。

 

 口だけ「ヘイワ」と唱えても家族や愛する者は守れないのです。