キリスト教は日本を救ったのか? | 井上政典のブログ

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 歴史ナビゲーターの井上政典がお贈りする祖国日本への提言です。
 
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 世界文化遺産登録のイコモスからの勧告で「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」と名を変えたキリスト教の遺産群が登録される見通しになりました。

 

 文化や歴史を大切にする日本ならではの事で、これで日本は仏教・神道・キリスト教の文化遺産が世界文化遺産に登録されるという世界でも稀有の国になります。

 

 これだけ狭い国土の中で、これほど統一性のない文化遺産が多数混在する理由を考えてみました。

 

 結論は「日本の寛容性」ということになるでしょう。

 

 すべて受け入れ、いいものは後世に残していくという日本文化の素晴らしいメカニズムがあるということです。

 

 外国のものだから、外人だから受け付けないということではなく、いいものは良いとして受け付けます。例えば、飛鳥・奈良時代にCHINAの王朝文化や仕組みを受け入れました。服装も階位も大陸に倣ったものになります。

 

 しかし、宦官制度は取り入れることがありませんでした。

 

 親からもらった体に傷をつけることはできないから? いえいえ日本人は刺青の文化がありました。

 

 それよりも人間としての喜びを犠牲にさせることなどかわいそうでできなかったのだと思います。

 

 これは、明治になって軍馬を去勢しなかったことにも通じます。オスの馬は去勢しないと暴れます。だからどこの軍隊でも軍馬にするときは去勢をしておとなしくして大砲をけん引させたり、資材を運ばせたりするのです。でも、日本軍ではそういうことはしませんでした。

 

 それは人間のために大事なものを切り取られたら「かわいそう」という性におおらかな日本文化の表れかもしれません。

 

 それから大家族制度、日本で家族と言えば親兄弟ですが、結婚すると祖父・親・自分・子・孫の縦に五代ですが、横の広がりはあまりありません。せめて兄弟・いとこくらいまででしょうか。

 

 でも、中韓の大家族制度は縦横9代ですから、総勢5千人くらいになってしまうそうです。一人が出世するとその一族はみんなその出世頭の人にすがっていきます。

 

 あの楊貴妃もそのお兄さんが専横政治をしたのが不幸の始まりだったのかもしれませんし、中韓の朝廷には「垂簾の政(すいれんのまつりごと)」というのがあり、皇帝や国王が早く死ぬと幼帝を補佐する皇太后が政治を行うという制度もあり、これが政治の乱れにつながる例も多々ありました。

 

 そして極めつけは皇室と幕府というように権威と権力を分離したことにより、日本の國體(こくたい)は権力者の栄華盛衰にかかわらずに保ってこられたという側面を持っています。

 

 さて室町時代の末期に入ってきたキリスト教は日本に何をもたらしたのでしょうか。

 

 でもその前に仏教が入ってきてからどうなったのかを知る必要があるでしょう。

 

 538年に仏教が正式に日本に入ってきました。その前から日本には仏教の僧侶がたびたび来日しており、福岡にはそれ以前からあったと言われる寺院も多々あります。

 

 神道という神の体の中に私たちが生きているという信仰とその秩序を表した仏教は曽我氏と物部氏の戦いの後はさほど争いもなくなりました。それは聖徳太子の17条憲法の第二条に「広く三法を敬え」とあり三法とは「仏法僧なり」と書かれているからです。

 

 それはそこから日本が仏教国となったことを示すのではなく、神道は当たり前でも仏教も大切にしてねという聖徳太子の教えだったのです。

 

 その後神道と仏教は本籍は一緒で呼ぶ名前が違うだけというような解釈が編み出され、仲良く共存していくことになります。

 

 例えば、「天照大神」は「大日如来」と本籍は同じだとか、スサノオノミコトは牛頭天王と同じとされ、牛頭天王が守る釈迦の住居を「祇園精舎」というので、いつしかスサノオノミコトを祭る神社は「祇園社」と呼ばれるようになり、八坂神社のお祭りを「祇園祭」といったり、博多祇園山笠と言ったりするようになりました。

 

 ただ、明治になって明治政府が歴史的な失敗の「神仏分離令」を出したために、日本の信仰の在り方が大いに変わってきました。

 

 さて、キリスト教ですが、ご存知のように一神教です。

 

 ですから絶対的な神という存在があります。でも、「絶対的な唯一の神」と決めた時点でその他は「神ではない」ということになります。それ以上に神=善の世界では神以外となれば善の存在ではなく、他のものは「悪魔」となるのです。

 

 それにより、室町末期に入ってきたキリスト教の信者の多くはポルトガルの帝国主義の先兵である宣教師の扇動によって、先祖の墓やお寺を破壊したりしました。キリストによってのみ神の国に行けるという信仰ですから、その他の信仰では自分たちが信じる神の国に行けないからです。

 

 それにより九州の西域では一種の宗教戦争的なものが起こりました。キリシタンが先祖の墓やお寺を壊すのです。ちなみにこのころはまだお寺にはお墓はありません。お寺は大学のような学びの場所でした。

 

 面白いのは神社を焼いたという例はお寺に比べてあまりありません。日本人の基本が神道だったから、キリシタンになった人も神社には手が出せなかったのでしょう。

 

 仏教が入ってきた時には、それまで神道は自然崇拝でしたから、社殿を持っていませんでしたが、豪華な仏教寺院に見劣りがするので、大きな神社の社殿が建立されていきました。それが現在神社と仏教の建物がそれぞれに存在することにつながっています。

 

 室町末期にキリスト教を伝えたのはご存知フランシスコザビエルですが、じつはザビエルは日本には二年弱しか滞在していませんでした。日本での布教の難しさがわかったのだと思っています。

 

 人々の生活の中には神道と仏教の教義が浸透していました。私たちがご飯を食べる時に言う「いただきます」や「ごちそうさま」はとても信仰に根付いた言葉です。

 

 文化を測る尺度のひとつとして「清潔さ」があると思いますが、その清潔さでは当時の日本は世界の先進国と言われたポルトガルやスペインよりも清潔だったと宣教師のフロイスなどが本国への手紙で書いています。

 

 ザビエルは早々に当時ポルトガルの植民地だったマカオに行き、そこで布教活動をしてそのままそこで客死します。

 

 ではどうして日本にキリスト教が広まったのか、それはザビエルの弟子であるロレンツィオ了斎という盲目の琵琶法師がザビエルの片言の日本語を頭の中で一所懸命に咀嚼するのです。

 

 しかり「スライム」を知らない人にどんなものかを言葉だけで説明するのは難しいことです。了斎も頭の中で自分が持っている知識に置き換えて理解します。それが観音様信仰に近いものになるのです。

 

 ザビエルの説く「マリア様」は観音様。慈母の慈悲によって人々の魂が救われるということは当時の日本の人たちにも容易に受け入れることができたのでしょう。

 

 また大村純忠のような弱小の大名はポルトガル船がもたらす武器が当時九州を席巻していた大友氏、島津氏、龍造寺氏などの大大名から領地を守る重要な手段でした。

 

 そのため宣教師を庇護し、布教を許していたのですが、前述の領民との間で宗教戦争的意味合いの争いが頻発するので、誰もいない今の長崎市の土地を分け与え、そこで布教活動をするようにと閉じ込めるのです。しかし、そこには良港の条件(水深の深さ・水がミネラルウォーター)がそろっていたために南蛮船が来るようになり、交易でどんどん発達していきます。

 

 長崎市に行かれた方はよくわかりますが、坂の街です。ということは平地が少ないため、米がとれないために誰も人が住んでいなかったのです。しかし南蛮貿易によって人や財が集まり、とてもにぎわう街に発展していったのです。

 

 それとともに日本では取れない硝石が輸入されましたが、その対価として日本人が奴隷として売られていったのです。その実情を知った秀吉が激怒し、宣教師を問い詰めますが、宣教師は「あなたの国の人たちが連れてくるので引き取っているが私から望んだものではない」と言い切るので、1587年に秀吉は伴天連追放令を出します。しかし南蛮貿易は富を生み出すので重視したために大名以外はあまり効果はありませんでした。

 

 そして1596年に再びさらに厳しい禁教令が秀吉から出される。この時にはフランシスコ会の宣教師たちがポルトガルの先兵だということが秀吉も分かったためでした。この時に起きたのが「日本二六聖人の殉教」事件です。

 

 これも日本人のキリシタンに棄教をすれば命は助けると何度も温情を示しますが、信仰を持った人たちの意思は固く十字架の上で処刑されます。

 

 徳川時代になっても南蛮貿易を続けたいので制限はしますが、キリスト教の布教は続いていました。しかし、日本全国に広がり、先鋭的なフランシスコ会の横暴が幕府の怒りを買い、さらに新教の英蘭、三浦按針などがポルトガルスペインの野望を説き、幕府も本腰を入れるようになるのです。

 

 1612年から1616年に渡って厳しくなり、とうとう1637年に起こった島原の乱を契機に一層キリスト教に対する恐怖が蔓延していきます。

 

 ここでキリスト教が仏教が入ってきた時のように既存の信仰と仲良くすればよかったのに、一神教の限界とポルトガルスペインの植民地主義の嵐が来たので、日本がやっと止めたのです。

 

 ここで日本がポルトガルの植民地になっていれば、明治維新もなく、大東亜戦争もなく、いまだに世界は白人が支配する地球という形になっていたことでしょう。

 

 日本は貿易する国と港を極端に制限することにより、西洋の侵略を免れました。もし、その時代が戦国時代という日本の歴史の中でも珍しい争いの時期でなければ兵器が発達せずに西洋の毒牙にかかっていたかもしれません。

 

 当時の鉄砲はポルトガル製の鉄砲よりも数段性能がよく、速射も可能でした。その技術の進歩も日本の当時の安全保障に寄与したのです。

 

 歴史的側面から見るとキリスト教の寄与したものはあまりありません。それどころか国内に争いを数々産み出しています。

 

 ただ信仰は人々の心の中の問題ですから、他人からとやかく言われる筋合いはありません。

 

 ただ、世界遺産登録となってもこれらの歴史をきちんと知ったうえで観光しに行ってほしいなと思います。

 

 キリスト教が善で、その他の信仰が悪ということはありません。そこから脱却することも戦後のWGIPの呪縛から逃れることにつながると思います。