なぜマスコミは国民の模範とはならない人をもてはやすのか? | 井上政典のブログ

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 歴史を通じて未来を見よう。

 歴史ナビゲーターの井上政典がお贈りする祖国日本への提言です。
 
 ご意見は賛成反対を問わずどんどん書いてください。

 ただし、社会人としての基本的なマナーは守ってくださいね。

 私の両親は93歳でまだ元気に二人で生きています。車で15分くらいの所に住んでおり、一週間に一度くらいの割合で様子を見に行き、時には買い物や病院に連れていきます。

 

 父は従軍をし、その後苦学の末に教員となり、福岡市で福岡教育大学を出ていないのに校長になるという努力の人です。そして日教組と戦ってきました。

 

 母も33年間小学校の教員をし、日教組の活動に嫌気がさして脱退したところ、いろんな嫌がらせを受けたそうです。

 

 ある時、日教組の先生が母の同僚に母と口を利かないようにといったそうです。しかしその同僚は「井上先生の学級経営は見習うことが多い、その反面あなたの学級経営はなっていない!」と反論してくれたそうです。

 

 その両親と先日話題になったことです。

 

 瀬戸内寂聴という作家だか、僧侶だかわからない人のことです。私もこの人は生理的に好きではありません。でも、それだけで人の好き嫌いを公言するのはよくないので、同年代なので両親にこの人の感想を聞いてみました。

 

 するとぼろくそです。

 

 自分の欲望のままに不倫をし、3歳の子供を捨てる行為など同年代の教育を受けてきた両親には理解ができません。ただ二人とも教員を長くやってきたので、いろんな家庭を見てきています。そこで育ってきた子供たちと接してきたのでその子供の声なき悲鳴を聞くことができたそうです。

 

 「辛抱」「忍耐」そして「幸福」だと言います。

 

 そして人のことよりも自分のことを一所懸命にしろと言われてきました。あとでそれが自分の分を弁えろという教えと気づきます。

 

 私も瀬戸内寂聴なる人がなぜこんなにマスコミでもてはやされるのか理解ができません。

 

 不倫を勧めたり、離婚を勧めたり、私たちが知っている道徳に反することばかりを人生相談でしゃべっています。

 

 便法の一つで、究極の選択を迫ることはあります。ところがこれを使えるのは一対一の個室での会話です。それを公の電波や紙面に載せることは誤解が生じやすいので危険だと思います。

 

 それを承知でこの人は言っているのか、それとも世の中の秩序や道徳を破壊するものなのかを考えてきました。

 

 そこで私の両親との会話となるのです。

 

 結論は、秩序・道徳の破壊だと思います。

 

 もし、自分を厳しく律してきた高僧が同じことを言ったら、便法の一つだと思うでしょう。なぜならこの高僧がそういうことを絶対にしないとすぐに理解できるから。

 

 でも、この人はそういうことを今までに散々してきた人なのです。また同年代で生きてきた両親も毛嫌いしています。

 

 自分が好き勝手生きてきて偉そうにもてはやされるのでいい気になっているだけ。同じような人で惨めな生活をしてきた人を一杯見ていると話します。

 

 そうなんです。いろんなことを他人は言います。それによって自分が将来幸せになるかどうかがポイントなのです。

 

 「幸せ」を感じる時はどんな時ですか?という質問をすると一番多い回答が;

 

 「家族と一緒にいる時」と回答だそうです。

 

 私も全くそう思います。土日は、近所に住む孫1号と3号(2号は東京にいるのでめったに会えない)と一緒に遊んでいました。二人の面倒を見ることは今の私にとって最高の幸せな時間となります。

 

 特に5歳の孫1号は来月の博多どんたく港まつりのパレードに参加するために昨日から筑前琵琶保存会の寺田蝶美師範のところで歌の練習を始めました。昨年も参加させてもらい大勢の沿道の観衆が見守る中、堂々と大きな声で歌って歩きました。今年も頑張ってほしいとじじバカぶりを100%全開にしています。

 

 今年の正月過ぎには孫四人が集まり、賑やかな時を過ごしました。子供の声は時にうるさく、騒がしいものですが全く苦痛になりません。

 

 幸せの協奏曲のように聞こえてきます。

 

 これが家庭を大切にし、夫婦とともに孫の面倒を見るという幸せの一つの形だと思います。当然これは私の個人的な感想ですから、いろんな家庭がありいろんな価値観があることはわかっています。別に強要するつもりはありません。

 

 ただ先の質問にあったように一番幸せを感じる時は?に対する答えが「家族と一緒にいる時」であるならば、私の幸せ感はまんざら独りよがりのものではないと思います。

 

 有名なスエーデンで行われた質問があります。ご存知のようにスエーデンは高負担高福祉の国です。税金は高いが老後の心配もなく、子育ても国が全部面倒を見てくれるそうです。

 

 そこで高齢者に「今まで生きてきた中で一番の大事件は何ですか?」というアンケートを取ったところ、一番多かった答えが「家庭が無くなったこと」と応えたそうです。

 

 それは国が子育ても老後も全部面倒を見てくれるので家族のつながりは必要なくなり、家庭が崩壊したことを意味します。そしてスエーデンの高齢者の自殺率は高い水準にあります。

 

 生活苦での自殺ではありません。生活は心配ないのです。国が面倒を見てくれるから。

 

 でも、自分の居場所が家にも社会にもないのです。だから「生きがい」というものを失い自殺する人が多いと社会学者が話していました。

 

 瀬戸内寂聴はそんな社会に日本もしたいのでしょうか。またこの人を持ちあげ、もてはやす人はそれを望んでいるのでしょうか?

 

 前川助平という人がいます。この人出会い系バーに行って少女にお金を払って食事をしたりデートを楽しんでいたようです。一線は越えていないとことですが、これも一種の援助交際ですよね。

 

 不特定多数の人とお金のために自分の時間を使うということは、前川氏のような奇特な人ばかりではなく、もっとギトギトした人も多いと思います。

 

 食事ぐらいならお金ももらえるしラッキーだと思っている少女が、毒牙にかかるのに時間はかからないでしょう。

 

 食事ぐらいなら、手を握るくらいなら、キスくらいなら・・・・どんどんエスカレートしていくことの想像は難くありません。

 

 つまり、この教育のトップにいた人がすべき行動は、そういう場所をなくさねばならないはずです。

 

 女の子を持つ親ならば同じ願いではないでしょうか?

 

 ちなみに私もある時期から若い女性が苦手になりました。自分の娘と同じくらいの女の子と接するとどうしても説教じみたことしか言えなくなるからです。

 

 これも人によって性癖はいろいろあるでしょうから一概には言えないのですが、若いときの過ちをできるだけ少なくしてあげることが大人の役割ではないでしょうか。

 

 そういう大人と出会えれば子供たちもいい人生が送りやすくなるのではないでしょうか?

 

 ただこの前川氏は文科省の事務次官だった人で、その人が現職の時のことが問題になっています。前にも書きましたが、現職の中学校の校長先生がそういう所に出入りしていることが発覚すれば、すぐに辞職に追い込まれるでしょう。なぜこの前川氏はそういう目に合わずに、今も堂々といろんなところに講師として呼ばれるのでしょうか。

 

 最近は芸能人のタトゥーをできるだけテレビに写さなくなりました。これも苦情が上がり真似をする人が増えるからということで自粛しているようです。もっと早く気づけよと思います。

 

 それと同じように一所懸命努力している人だけが公に出るべきなのです。それがみんなの模範になるから。

 

 それは、歌や踊りだけでなく、日本の職人さんの努力ももっと表に出すべきです。和風総本舗でしたっけ、職人さんたちを紹介する番組、大好きな番組の一つです。

 

 ビートたけしも若いころ、ネタ帳に夜どおしかかってネタを考えながら寝落ちしていたということが紹介されていましたし、あの島田紳助も若いころ人気のある先輩漫才師のネタを文字起こしをして、何が受けるのか、どうしたら受けるのかを一所懸命分析していたそうです。

 

 イチローが今でも現役の人気大リーガーとしていられるのも目に見えない努力の結果です。

 

 最後に、NHKの西郷ドンの話題を一つ。

 

 事実に即していないシーンが多く、ちょっと懐疑的に見ています。また先週はドラマを中断して特別番組にするなど裏切りかと思えるような構成ですが、昨晩の最後のシーンは今までの放送の中で一番よかったと思ったので一言。

 

 西郷吉之助は島津斉彬に見いだされ、身分は低いままですが、殿様の重要な役割を担っていきます。しかし、大久保正助は国元で悶々とした生活を送っていました。

 

 幼馴染の正助を思いやり、殿様に熊本(肥後藩)まで同行をお許しを頂きます。それを大久保は上から目線だと反発し、お互い反目したまま出発の日を迎えます。これが分かれ道なのかと視聴者に思わせます。私はそれを見ながら「また事実と違うことを演出してからに」とちょっと斜に構えてみていました。

 

 すると大久保は嫁に諭されて西郷を追います。すると山道のカーブで西郷が滑りこけながら戻ってくるではありませんか。

 

 「どげんしたと?」と大久保が聞くと西郷ドンは「忘れもんをした」と答えるのです。

 

 「こげな大事な時に何を忘れたのか?」と訝しがると、西郷ドンは「正助どんを忘れ申した」というではありませんか。

 

 実際にはこんなシーンはなかったと思います。でも、演出として二人の固い友情と友をお互いに思いやる姿は美しく、二人の若手実力者俳優の名演技と相まって、胸がジーンと来ました。

 

 このお互いを信じるという心が後のご維新の大業を成し遂げる原動力となるのです。元勤務していた明治生命の鹿児島支社は加治屋町にあり、その町内に西郷隆盛、大久保利通、東郷平八郎、大山巌の生家が密集しています。

 

 萩に行くと同じ町内から総理大臣が5,6人ほど出ています。

 

 この意味は、お互いが子供のころから知ってお互いを信じていたから。そして信じることのできる人間に育ったのは、家庭がしっかりしていたからだと思います。

 

 これらの家庭は決して裕福ではありません。テレビのように貧しくても汚くありません。継ぎあてだらけの着物を着ていてもこざっぱりと洗濯のしてある服を着ていました。長幼の情・礼節を守り、そして何よりも自分の使命とは何かをしっかりと知っていたのです。

 

 これらは家庭教育と郷中教育がなせる業です。その家庭を壊そうとする人たちがマスコミでもてはやされるのは我慢ができません!