妻が借りてきた何本の映画のうち、この一本が目に留まりました。20世紀フォックス社制作の秀作です。
これは1960年代アメリカがソ連と宇宙開発競争に躍起になっている時のお話です。主人公は数学の天才の黒人女性とその友人二人です。
それぞれが高い学力を持ちながらも、黒人さらに女性ということでまともな仕事に就けない時代の頃です。
えっ?1960年代って昭和で言うと昭和30年から40年にかけてです。アメリカが日本人に躍起になって基本的人権の尊重や民主主義や国民主権を植え付けるために日教組を使って教育をしていた時期です。
この時期アメリカではキング牧師らの公民権運動が激しさを増していたころで、アメリカの各地では歴然とした人種差別が残っていました。
私はちょうど学生時代に母校である西南大ESSでケネディ大統領の就任演説やキング牧師の演説などを暗記したり、その背景を調べていたりしていた時期でしたので、この映画の時代背景がとてもよくわかりました。
小学校から飛び級で高校に入るほどの数学の天才少女ですが、残念ながらこの子は黒人でした。ですからその能力を評価される前に黒人それも女性ということでまともにスタートラインにも立たせてもらえませんでした。
それでもNASAで非常勤の計算係となり、白人の何分の一かの収入を得て糊口をしのいでいました
しかし、彼女は自分の能力に気づいており、それを活かした仕事をして、差別をされてもそこであるアメリカに尽くしたかったのです。
宇宙特別研究本部の計算係として配属されますが、そこは白人の男性ばかりで誰も仲間と思っていませんでした。
唯一の女性(白人)に「トイレはどこですか?」と聞いても、「ノンホワイト(非白人)のトイレの場所は知らないの、ごめんなさい」と言われるのです。
ほんの50年前にアメリカには強烈な人種差別が存在し、白人とそれ以外の人種が使うトイレや水飲み場、そしてバスの座る位置などが州の法律によって厳格に決められていたのです。
単純な人種による差別の存在しない日本では考えられないことです。私たちが差別すると言われるのは「人種」によるものではなく、ほとんどが「衛生観念」や「嘘を言うから」ということによる区別です。
戦前も朝鮮出身であろうが優秀な人材は高位についていました。帝国陸軍中将であった洪思翊閣下はその代表的な例です。
日本名が許された時にも敢えてそれを使わず、朝鮮名のまま「私は朝鮮人の洪思翊である、その指揮下に入ることに不満のある人はすぐに転属願を持ってこい」といつも部隊着任挨拶の時に言ったという逸話が残っています。
だれも転属願を持って行った人はおらず、立派な軍人として尊敬されていました。
こういう例は他の植民地を経営していた国はありません。これは日本が人種ではなく、能力で判断していたというとても重要な例です。
洪将軍が少将に昇任したのは昭和16年のことです。つまり、1941年です。
しかし、アメリカは1960年代にはまだ黒人差別や女性差別が歴然と残っていたのです。
話を元に戻すと、白人男性の超エリートの研究者が何人かかっても解けない課題をこの黒人女性キャサリンが解くのです。それにケビンコスナー演ずる本部長がキャサリンの天才的能力に気づき彼女にどんどんチャンスを与えますが、当然周りの白人たちは面白くありません。
ある日、たびたび席からいなくなるキャサリンを本部長は「いったいいつもどこに行っているのか?」と叱るのですが、その時に初めて黒人女性のキャサリンが800メートルも離れたところにしか黒人女性が使えるトイレがないことを言うのです。
ちょうどその時、ソ連のガガーリンによる有人宇宙飛行が成功し、先を越されたアメリカは焦っていました。この本部長は周りから数字にしか興味のない変人扱いされていましたが、アメリカ国民が一丸となって宇宙開発競争に打ち勝たねばならない時にまだこんな問題が国内にあるのかということでトイレの「表示」を叩き壊すのです。そこには「非白人用」と書いてありました。
こういうのも日本人には理解しがたいものがあります。日本人用と非日本人用のトイレなんか見たことありますか?
普通の店に外国人旅行者が入ってきて、普通に食事しようとしたら、「外国人お断り」と言って追い出しますか?
ただ、大勢入ってきて騒ぎ散らかしたらだれでも追い出されますが・・・。
キャサリンやこの映画に出てくるその他二人の黒人女性は差別されていることに愚痴るだけでなく、精一杯の努力をします。
キャサリンの友人の一人はIBMのコンピューターが導入されるのを知ってフォートラン言語を学び始めます。コンピューターが導入されてもそのコンピューターと会話できる言語がわかる人がいないとただの箱なのです。そして見事にその役職を射止め、同じ職場で働く黒人女性たちを指導してキーパンチャーやプログラマーとして育て、認められるのです。
もう一人の女性は、NASAの技術者になるために学位は持っているのですが、白人の高校の履修歴が必要だったので、裁判所に訴え判事に新しく切り開く存在にお互いになりましょうと説得するのです。
そして彼女らは自分の能力の応じての職に就き活躍するのです。
ただ単にマイノリティーだから、差別は良くないから、優しくするのは当然だとようなお涙頂戴の映画ではありません。
自分の今の地位に不満なら人一倍努力してその地位を自らの手でつかもうという誰にでも勇気を与える映画です。
そして最後には実際の写真が出てきます。そうです、この映画の主人公たちはみな実在の人物であり、実際に不当な人種差別と闘ってきた人たちのお話なんです。
よく、「差別は良くないことだ」とか「弱い人の立場に立って考えろ」とか「日の丸を見てどれだけ木津附く人がいるのか考えよう」という人たちがいます。ぜひそういう人たちにこの映画を見てほしいです。
見た目や人種での差別はよくありません。でも、その人たちが努力せずに相手のせいばかりして反省もせず、他人に迷惑をかける存在ならば疎まれても仕方ないことだと思います。
違う民族だからというだけで差別するような日本人にはなりたくありませんし、そういう人は本当に日本人という意味が分かっているのでしょうか。
おおらかさをもって異文化を受け入れ、良い面があればそれを取り入れ、会わなければそれを取り入れない、それが日本の文化です。
貴乃花親方が問題になったテレビのインタビューで「横綱の意味は?」と聞かれ、即座に「包み込むことです」と答えていましたが、これと同じことが「日本文化は?」と聞かれても言えるでしょう。
世界的な標準の差別をもっと知れば、日本国内におけるものがいかに緩いかがわかるでしょう。
また人間の能力をきちんと評価する社会だということも日本社会の特徴です。とはいっても最初は苦労はあるでしょうが、すぐに周りがその努力に気づいてくれます。
この映画は差別する人も差別される人もぜひ見てほしい映画です。見ていて痛快ですし、テンポもよく、お涙頂戴のシーンもありません。でも、自然に感動して泣けてくる映画なのです。
現代が"Hidden Figures"です。「隠された数字」というのが直訳でしょうが、意訳すると「本当の姿」と訳せるのではないでしょうか。
オリンピックに飽いた方にはぜひおすすめの映画です。ちょうどレンタルが始まったばかりですよ。