全開の続き、「かまちょさん」の反論に対する反論を行います。 | 井上政典のブログ

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 歴史ナビゲーターの井上政典がお贈りする祖国日本への提言です。
 
 ご意見は賛成反対を問わずどんどん書いてください。

 ただし、社会人としての基本的なマナーは守ってくださいね。

 前回のブログの内容に対しての反論が来ました。

 

 長文ですが、左巻きの人の論理構成がよくわかるので敢えて全文を最後に掲載します。興味のある方はぜひお読みいただき、自分なりの反論を考えてはいかがでしょうか。

 

 まずは私の考えを述べたいと思います。

 

 かまちょさんの素性は知るすべもありませんが、文章から推察すると1.かなりの高学歴。 

2.信念を持っての反安倍政権

3.年齢は私と同じ(60歳)またはちょっと上の方。

4.自虐史観が歴史観のベース。

5.職業は自分よりも常に弱者を相手にする「先生」かなと推察します。

 

 一般の社会でこういう理屈をとうとうと述べる人は、会社では孤立し、誰からも相手にされないと思います。

 

 なぜなら、一般の会社では理屈よりも成果が求められ、そのプロセスよりも結果が求められるからです。

 

 どんなにプロセスが正しく立派でも、結果がだめであればただの無能な社員というレッテルを張られるのがおちで、出世競争からは脱落していくからです。

 

 かまちょさんはそういう競争下にない社会に所属しているというのが5番目の理由です。

 

 ここで何度も批判してきた野党の議論の仕方ですが、本来の日本国民の生命・財産を守ることは議論の対象とはせずに、ただ「お友達だから優遇された」という隣の国の大統領の弾劾を彷彿させる論理構成で国会の貴重な時間とお金を浪費していると私は思っています。

 

 森友学園問題は大阪府議会で審議すればいいだけの話。

 

 加計学園に至っては、元愛媛県知事の加戸氏の証言できれいに決着はついていると思います。

 

 初めに加計学園ありきといいますが、以前から大学の新設を望んでいたのは今治市民だったからです。

 

 今治市の方に聞くと、立候補する市長や市議や国会議員候補者が大学の誘致を実現するという公約を掲げて選挙戦を戦い、それを主張する人が当選してきているそうです。

 

 福岡市でいろんな立候補者の演説会やっ直接議論をしてきましたが、一人も新設の学部を誘致するという公約を掲げた人はいませんでした。

 

 なぜなら、福岡にはいくつもの大学がすでにあり、今更新しい学校を誘致すると言われても誰も喜ばず、票になりません。

 

 でも、今治市では市民が今後の町の発展のためにも大学の誘致が必要だと判断し、市長や議員にその思いを付託しています。

 

 そしてやっと実現した加計学園の獣医学部の誘致を野党の党利党略のために邪魔をされていると考えれられているそうです。

 

 10月に補選があるそうです。その結果が今から楽しみです。

 

 

 民主主義はどうのこうのと理屈を述べられていますが、民主主義は議論を尽くし、選挙で自分たちの王様を決め、自分たちの税金の使い方等を決める一つの方法でしかすぎないと思っています。

 

 西洋から入ってきた民主主義と日本古来からある話し合いの文化が融合し、日本的な民主主義となってきました。

 

 ところが戦後、二度とアメリカに刃向えないようにと日本精神をズタズタにされてきています。

 

 そのため、日本的なものは否定されてきました。

 

 戦後の復興から弾みをつけた高度成長という経済の伸びの代わりに精神的なものが失われ、多くの心的な病気を抱える人が増えてきました。

 

 でも、ここにきて日本古来の伝統文化を見直す動きが活発化しており、顕著な例が神社への参拝者の増加です。

 

 8月15日東京は土砂降りだったようですが、それでもたくさんの日本人が英霊に感謝の誠を捧げに靖国神社に行かれていたようです。

 

 私も孫を連れて福岡県護国神社に参拝してきました。もうすぐ5歳になる子は、いつも神社に連れていくので、二礼二拍手一礼の作法も知っており、小さな手を合わせ、小さな体を二回ちゃんと折り曲げて参拝します。

 

 その様子を英霊がご覧になってきっと微笑んでおられると確信しました。

 

 実は、護国神社の境内から出ようとするときに、私の右肩から頬のあたりを誰かが触ったように気がしたのです。

 

 後ろを振り向くと誰もいません。

 

 きっとこの世であったことはありませんが、母から常に話を聞いている母のお兄さんが「今年もよく来てくれた、ありがとう」と言いたかったのだと思っております。

 

 話が大幅にそれました。

 

 でも、左巻きの人たちと議論をするときどうしても先の大戦の意義についての前提の違いに行きつくのです。

 

 靖国神社も各地の護国神社も日本のために、つまり私たちのために尊い命を捧げてくださった英霊を祀ってあるという思いで護国神社には宮司さんとも友達ですので、良くいきますし、上京した際には靖国に感謝の誠を捧げに行きます。

 

 以前はそれが軍国主義者だとか、好戦主義者だとかのレッテルを張られていたのですが、最近は特に若い女性が多く参拝しているのを見ると日本もまだまだ捨てたものじゃないと思うのです。

 

 マスコミはいまだに靖国神社に首相をはじめとする閣僚の参拝どうのこうのと問題にしていますが、行こうが行くまいが気にしないことにしています。

 

 政治的判断で行かない方がいいと思うならばそうすればいい、ただ神社に行かなくてもその人の言動で英霊の方々への尊崇の念は疑いないと思えればそれでいいのではないでしょうか。

 

 神社に行かれるなら軒先での参拝もありですが、どうせなら昇殿参拝をした方が英霊の方々との距離は近づきますし、数倍清々しい気持ちになります。

 

 実は神社の本を書いた私が最初に昇殿参拝したのは靖国神社でそこで初めて神道というものに大いなる興味を抱いたのです。

 

 若干の費用は必要ですが、仲間と共に行って申し込めば大した金額ではありません。その後味わうことのできる爽快感を考えれば安いものだと思います。

 

 正月の参拝で靖国神社で納めた額は2000円でした。

 

 私たちの先人はアジア各地で戦いました。そこの住民には多大な迷惑をかけたと思います。でも、戦った相手は欧米列強であり、当時そこを植民地として現地の人を奴隷扱いしていた連中でした。

 

 という部分が左巻の人たちを決定的に違う所でしょうが、実際ベトナムやマレーシア、タイや台湾に行って現地の人と話してみてください。

 

 みんな親日ですよ。

 

 「あなたは日本人ですよね。」と聞かれ、そうだと答えると満面の笑顔でよく来てくれたと大歓迎された経験が10本の指で数えられないくらいあります。

 

 ほとんどが英語での対応ですが、台湾では日本語で通じる老若男女がおられました。

 

 東南アジアに行って日本人だからといって不快な思いをした経験のある人っておられるのでしょうか?

 

 もう20年以上前ですが、韓国に行った時もまったく日本人だからと言って不快感を味わったことがありません。大歓迎を受けてビールをおごってくれたことはありますが…。

 

 ただ今の韓国に行くつもりは毛頭ありません。

 

 公共の乗り物に「慰安婦像」が乗っているというミステリーがある限り、そして有名な観光地に変な像がある限り、怖くて韓国に行くことはありません。

 

 ただいつも言いますが、日本に憧れて日本が大好きで来日されたお客様はいつでも大歓迎で、日本のおもてなしの心で接しています。

 

 軍事的にいっても、そこまで飛ぶかどうかわからないミサイルの標的になっているグアムよりも、確実に重砲の砲弾が飛んでくるソウルの方が絶対に危険です。

 

 そのことは韓国人が一番知っていて今回の騒動でも韓国人がグアムに行った数は記録を更新しているそうです。

 

 動員数と言えばあの鳴り物入りで宣伝された映画「軍艦島」は当初は動員できたものも、急速に色あせ、とても苦戦していると聞き、やはり韓国人も急進的な反日が及ぼす悪影響を憂いているのかと思います。

 

 この映画に関しては堂々と嘘が多いと発言する韓国人が大勢いてくれてうれしく思います。

 

 本当に悪いことをしたのなら、謝りますし、反省もしますが、してもいないことをねつ造されたらどんなに温厚な私をはじめとする日本人は反撃ののろしを上げますよね。

 

 最後にかまちょさんが

 

>>>引用開始

 

 ブログ主さんは不当であっても安全であればいい、という立場かもしれませんが、既に書いたように民主主義と安全は互いに独立したファクタですので、1・正当かつ安全、2・正当かつ危険、3・不当かつ安全、4不当かつ危険、と四通りの組み合わせが考えられます。世の中には危険があっても正当である方がいいという考え方もあるでしょう。私個人としては正当かつ安全というのが望ましいと考えています。

 

>>>引用終わり

 

 と書いてありますが、当たり前のことでしょう。

 

 時間があったら1の正当かつ安全が望ましいのですが、現在の自衛隊関連法案の実情や北朝からの脅威から緊急の必要性を感じる現在の状況下では、「日本人の生命・財産を護る」という命題を第一に考えるので、それを達成する方法は政府を信用して委ねたいと思います。

 

 ただ、民進党をはじめとする野党には絶対に任せらないのがこの安全保障問題で、その理由を下記の引用でかまちょさんんが長々といや失礼、とうとうと述べておられますのでぜひお読みください。

 

 >>>引用開始 

 

> ここのブログでは考え方が違っても礼節を持った文章で論理的に書かれているものであれば、大歓迎で掲載するようにしています。

 

最初にこの姿勢に敬意を表したいと思います。

 

そのうえで以下のように述べさせていただこうと思います。

 

 まず第一に、私は民主主義を守ることは民主主義制度の上で成り立つ政治家の義務であることは言うまでもないでしょう。彼らの立場の正当性を担保しているのがその民主主義制度なんですから。

 

 次に、私は民主主義を守ることと安全とのどちらの方が大切かなどという比較について述べていません。それに安全を蔑ろにしていいなどと一言もいっておりませんので議論のすり替えではないでしょうか。

私は政治家が民主主義を守るのは当然の責務であると同時に、安全は極めて大切なものであると言っています。

 

 それをきちんと両立するため、一刻も早い問題解決を望んでいる、と書いたはずです。

 

 民主主義と安全というのはどちらかを立てればどちらかが引っ込むというような話ではないはずです。なぜこの二者から択一的な選択をしなければならないのか理由が不明です。

 

 互いに優劣のある問題でもなく、どちらも守るべきだというのが論理的な立場じゃないでしょうか。

 

 両方の問題を適切に処理すべきというだけのことではないでしょうか。

 

 少なくともこの民主主義と安全は、民主主義を立てれば必ず安全が損なわれるといった関係ではなく、特に今回の問題は政府が説明責任を全うするだけで簡単に片付く話のはずです。

 

> これを四字熟語で「本末転倒」というのではないでしょうか。

 

おそらくこれは違うのではないかと思います。

 

 民主主義と安全はそれぞれ独立した問題で因果関係にないので、どちらが「本」でどちらが「末」かといった位置関係にはないと思います。

 

> 国家の指導者の悪口を言っても何のお咎めもなく、野党の国会議員やマスコミは自分の後ろには国民がいると言って年上の為政者に対して無礼な発言や同じことを何度も聞いて大切な時間を浪費しています。

 

 為政者を批判してお咎めを受けるようなことに果たして道理があるでしょうか。時間の浪費というのはクリアな説明をして一切の疑念を払拭しようと努めない為政者側の問題でもあるはずです。

 

> 民主主義を守ると言いながら、数だけで決めるなんて民主主義ではない!という低能者がいましたが、かまちょさんの言う「民主主義」とはいったい何なのでしょうか。

 

 民が主権者であり、民の意思によって政治が行われるべきであるとする主義でしょう。

 

 日本の場合は議会制民主主義を採用していますので議会や行政は国民の意思に忠実でなければならず、であるならば国民に対して一点の曇りすらない透明性が当然に要求されます。ですから説明責任が求められているのです。

 

 犯罪に対して司法は「疑わしきは罰せず」の原則がありますが、これは司法権力と国民のパワーバランスによる要請です。他方で主権者である国民は単なるその代理執行人である行政に対して透明性を要求することができるのは当然で、であるならばこの場合は「疑わしきは許さず」が原則になり、グレーは許されないはずです。

 

 ちなみに、多数決制度についてですが、議会制民主主義は議会の議論で物事を決めるのが大前提です。議会を無視した多数決つまり強行採決はあってはならないのでして、多数決が行われるにも本来は満たされなければならない条件があるはずです。

 

 つまり、議会制民主主義を理解していれば議論が尽きる前に採決をしてはならないことは自明です。議論の結果を待たずに採決することがまかり通るならそもそも議会の存在意義が無くなってしまうのですから。そうでないと、選挙で数を揃えたやつが何でもかんでも独断で決めればいいという話になってしまいます。

 

 で、議論が尽きたかどうかは論理的、客観的に定まるものです。

論理というのは前提、過程、結論の三部から構成されるものですが、議論が正当に論理に基づくのであれば前提が同じならば結論は一つに定まるし、 結論が一つに定まらないことを確認するには前提の差違が明確に確認されなければならないでしょう。

 

 それは例えば自民党が何を前提にしており、野党が何を前提にしているかというところまで徹底的に議論を遡らない限り、結論が定まらないうちに議論が尽きたとはいえないということです。

 

 そしてまた、議論は言葉に基づかなければならないので、明確に自民党や野党が何を前提にしているか言葉で示されなければそこまで議論を遡ったとはいません。

 

 議会制民主主義が議会の存在意義を失わないためには議論は尽くさなければならないし、議会の存在意義を失うなら議会制民主主義は成立しないわけです。そして日本は議会制民主主義の国ですから、行政の正当性は議会で議論が尽くされて初めて担保されるものです。

日本が議会制民主主義を採用している以上、政治の正当性とは議会制民主主義に照らして正しいかどうかで定まるものです。

 

 ブログ主さんは不当であっても安全であればいい、という立場かもしれませんが、既に書いたように民主主義と安全は互いに独立したファクタですので、1・正当かつ安全、2・正当かつ危険、3・不当かつ安全、4不当かつ危険、と四通りの組み合わせが考えられます。世の中には危険があっても正当である方がいいという考え方もあるでしょう。私個人としては正当かつ安全というのが望ましいと考えています。