今村元復興相の発言について考える。 | 井上政典のブログ

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 今村元復興相も軽率です。前回のあの活動家の質問にまんまと踊らされて自分の意図とは違う方向で騒ぎになったのに、今回です。

 

 どう釈明をしようとも大臣辞任は仕方ないと思います。

 

 前回の発言で今まであまり話題に上らなかった今村元復興相が反安倍の勢力からマークされていました。それに気づかずに、身内のパーティの気安さかつい口が滑ったとした言いようがありません。

 

 この人は比較論を言っていました。

 

 首都圏でもしあの地震と津波が来たらこれくらいの被害では済まなかったと言いたかったのです。だからもっと気を引き締めて有事に備えねばならないと言いたかったのでしょう。

 

 それは復興相としてその予想される被害の大きさにどう対応していくかのシュミレーションの数字を見ていたと思います。

 

 それが「東北でよかった」という発言に繋がります。

 

 テレビのワイドショーで延々とこの発言だけを取り上げ、東北の人たちに配慮が足りないとつき上げています。

 

 でも、テレビで福島第一原子力発電所の事故を過大に取り上げ、その周りでは人も住めないような印象を与えるデマをまき散らしているのはマスコミや今回の今村元大臣の発言を非難している人たちです。

 

 今村元大臣の心情を忖度すれば、東北の被害者の人のことがどうでもいいと思っているとは思いません。むしろ、復興相としてできることの小ささに自分の非力を悔やんでいる毎日だったと思います。

 

 今回の津波の被害で起きた原子力発電所の事故の結果、科学的根拠の全くない1ミリシーベルト以上で除染や避難をさせた結果、たくさんの人がまだ自分の故郷に帰れません。

 

 安倍政権も科学的見地から民主党政権の時に定めた非科学的な数値を破棄し、以前のような20ミリシーベルトに戻せば、一気に帰宅困難者はいなくなります。

 

 前回の今村元大臣の発言は、政府によって非難されられた人たちではなく、放射能が怖いと言って自分から逃げ出した人の面倒まで国が見ろという発言に対しての発言でした。

 

 事故後たくさんの専門家が調査した結果、多くの場所で除染は必要なく、すでにほとんどの地域で普通に生活ができるようになっているにもかかわらず、風評被害とイデオロギーの絡んだ活動家による扇動、そして放射能が怖いという核アレルギーによって福島県がとても放射能で汚染され、人が済めないような場所になっていると思い込んでいることが、あの地域の復興を妨げています。

 

 私がなぜ今村元大臣を庇うのかをご説明します。

 

 昨年7月に佐賀空港へのオスプレイ配備を考える会でエルドリッジ博士と一緒に佐賀空港周辺の福岡県柳川市、佐賀県唐津市、そして地元の佐賀市で講演した時に、最後の佐賀会場でこの今村元大臣は明確に「佐賀空港に陸上自衛隊のオスプレイを配備することは、防災上大変有益である」と私の目の前で明言され、のらりくらりする国会議員がたくさんいる中、勇気のある議員だなと感心しました。

 

 オスプレイ配備に反対する勢力と、原子力発電所の再稼働に反対する勢力と安倍政権に反対する勢力は根っこがほとんど一緒だということをこのブログでも何度も書いてきました。

 

 失礼ながら今までマスコミから注目を浴びてこなかった今村元大臣は発言が不用意過ぎたと思います。

 

 でも、一部分だけを抜き出し、いかにも東北の人の心情を傷つけたかのように得意げになって批判する人をどうしても受け入れることができません。

 

 私の東北出身の友人で津波の被害者でもある彼は、もしこんなのが首都圏で起きていたら日本はつぶれたかもしれない、自分たちでよかったという発言を過去していました。

 

 彼の言葉の奥には、何が何でも元の生活を取り戻すんだという決意があふれていました。でも、原子力発電所の放射能の問題でマスコミがふりまく風評被害によって復興が思うようにならないということも言っていました。

 

 正しい知識を持ち、ちゃんとした情報を知れば、怖がる必要もないのです。しかし、それをすべて原子力発電所は怖いという日本人の潜在意識の中にある核アレルギーを呼び起こしています。

 

 怖いならちゃんとした情報を自分で探して勉強したらいいのです。いまでも福島第一原子力発電所構内では数千人の人たちが放射線障害もなく働いています。

 

 その周りの住人たちの放射能で健康被害が起きた例もありません。あるのは、デマと風評被害とそして想像被曝だけです。

 

 いつから日本は自由に物が言えなくなったのでしょう。

 

 復興大臣が言ったから問題だと言われる人もいらっしゃいます。

 

 復興大臣は誰よりもその被害の大きさと復興に関する難しさを知っている任にある人です。

 

 それを軽々しく言うわけがないと思うのが普通の日本人だと思います。

 

 軍隊の教本に;

「戦闘中に被弾した人が三人出ました。A.一人は頭部に銃弾を受け即死、B.別の人は腹部に銃弾を受け重症、そしてC.最後の一人は足に銃弾を受けました。さて誰を一番に助けるでしょう?」

 

 という内容のものがあります。

 

 戦闘中というのがみそなんですが、普通なら重傷者から手当てしていくのが普通の常識ですよね。でも、戦闘中なら軽症の兵士を手当てして戦線に復帰できるようにするのが常識なのです。

 

 一人でも多くの兵士が銃を持って戦わないと部隊全員が死んでしまうからです。

 

 そういう命令を出し、部下を指揮するのは部隊の指揮官であり、責任者です。そのために腹部に銃弾を受けた人が死ぬかもしれません。

 

 でも、でもその人を助けるために敵と戦っている兵士をそちらに回せば部隊のみんなが死んでしまう可能性が高くなるのです。

 

 爆発事故や列車の事故等でたくさんの被害者が出た場合、最初に医者がするのは無傷、あとで治療する、すぐに治療をする、そして既に死亡と分類することです。

 

 ここでも被害者を「分類」するとは何事かと言われそうですが、現場の医師や看護師が感情にとらわれることなく、非情に徹して客観的に分類して被害者を見ていくことがより多くの人たちを助けることができるのです。

 

 これをトリアージと言います。日本語では識別救急とも言うそうです。

 

 その時にどんな表現をしただの、自分の肉親が後回しにされただの医者や看護師に文句を言う人は、助かる命を助からなくすることにつながるのです。

 

 大勢の被害者が出た場合には、指揮官は非情にならなくてはなりません。被害者を数で判断して決断を下さなければならないことも出てきます。

 

 そういう時に発せられる言葉は被害者の家族の感情を気付つけるかもしれません。

 

 しかし、そういう状況下でこの言葉が誰を傷つけるのかと考えることは全くの無意味であり、冷静な判断を妨げるものになることが往々にしてあるのです。

 

 今村元大臣の発言の全文は読んでいませんが、もし今村元大臣の頭の中に被害者総数があり、それを東北と首都圏で比べていたら、あの言葉が出てもおかしくないでしょう。

 

 今回の騒動は現在やっているのは安倍政権に少しでもダメージを与えようとする「言葉狩り」にしかすぎません。

 

 野党は安倍総理の任命責任を問うために、他の法案の審議拒否をするなどと言っていますが、共謀罪の審議とこれと何の関係があるのでしょう。

 

 大勢の国民の中にもあの大臣の発言は非常識だと怒っておられる方もいますが、その発言がどんな状況で誰に向かって発したのかを知って言うべきではないでしょうか。

 

 「ばか」という言葉も、よく知っている人と全く初対面の人に言う時は全く違う受け止め方をされます。

 

 そして話し言葉はトーンによって全く意味が変わります。

 

 恋人同士で「ばか」と甘く発言するのと、理不尽な発言をする人に対して「ばか」と発言するのでは全く意味も違ってくるでしょう。

 

 あまり切り取った言葉だけを問題にするのはいかがなものかと思います。いろんな考え方がおられると思いますが、最近の日本の言葉狩りの風潮はあまり好きではありません。