3.11以降しばらくおとなしくなっていた成人の日の行事がまた荒れだしたようです。
テレビで面白おかしく流すので、目立つためにやる若者もいるそうです。ただ今年のニュースを見て思ったことはきちんと両方を紹介していたことです。
派手な衣装を着て酒を飲み、式典を妨害する無法者もいれば、熊本県阿蘇市長のように毎年若者に送るいろんなパフォーマンスが話題になっているところ、恒例の千葉の浦安市のディズニーランドでの成人式、そして震災当時中学3年生だった人たちが成人の日を迎えて、震災直前に同級生と写った記念写真と同じところでまた写真を撮るという若者の姿などをきちんと流していました。
その若者は近い将来故郷の復興に携わる仕事に就ければこんな幸せなことはないと語っており、それをみて胸が熱くなりました。
大勢の仲間が震災で命を落とした人たちにとって、成人の日を厳粛な気持ちで迎えるのが当たり前であり、それを茶化したりイベントのようにしたりすることはその日を迎えられなかった亡き友に対して冒涜しているように映るのではないでしょうか。
その気持ちは隣の国々や国内の左巻きが靖国神社にお鎮まりになる英霊の方々を冒涜する数々の悪行を見るが如しだと思います。
ただ北九州の成人式の一部の若者がど派手な衣装を着てみている人の度肝を抜くというのは私は否定しません。それは彼らの主張であり、考え方だと思うからです。
ど派手な衣装を競い、式典会場外で仲間で集って盛り上がるのも一興だと思います。自分の孫にはしてほしくないですけど・・・。
ただ式典会場に乱入して進行を乱したり、代表が発言中に妨害するような行為は社会的に迷惑行為として厳罰に処すべきだと思っています。
ましてや暴走行為や喧嘩などは甘えかさないで大人の責任を重々に教えてあげるのも社会の役割ではないでしょうか。
つまり、「私」と「公」のけじめをきちんとつけることが大人になるということだと思います。
残念ながら私も含めて今の大人が公私の区別をきちんとつけられていないケースが多々見られ、若者たちの良いお手本になっていないのが現状です。
奈良時代からある元服の儀式が生じて成人の日となったのですが、元服の儀式が済めば頭に烏帽子をかぶって外に出ることや月代をそるために頭の形や服装が変わるために一目瞭然で大人の仲間入りをしたことがわかり、周りもそれ相当の対応をしたと言われています。
つまり形から入り、大人としての責任と言動をその日を境に求められていったのです。それが小正月の1月15日ということで戦後長く1月15日が成人の日となっていましたが、これもハッピーマンデー制度によって歴史的な意義をないがしろにしてした悪しき例の一つです。
以前は本来1月15日が成人の日でしたが里帰りで故郷で仲間と共に成人式をということで1月2日や3日にするところもありました。だからいつでもいいじゃないかという意見もありましたが、本来の日をきちんとしていて、便宜上別の日にするというのは日本的なあいまいさで良しとされていたのです。
しかし、日そのものを動かすということはその日の意義をないがしろにするということになるのです。
たとえば誕生日が休みの方がいいだろうということで、その月に生まれた人は一律第三日曜日に法律で決めていいものでしょうか。
誕生日がその人の歴史の始まりならば、祝祭日もちゃんとその日に制定したという歴史的な意義があるのです。
成人式を迎えたからと言って何も変わらない現代において、せめてその式は厳粛に自分を振り返り、そこまで育てていただいた両親や社会に対しての感謝の気持ちを持つことができるようにした方がいいと思います。
今三歳の孫が成人の時には、神社でその成人の日を祝ってやりたいという思いがあります。神社によっては既に昔ながらの烏帽子姿などで成人を祝っている所もあり、神々の国日本に住む日本人として日本古来の伝統風習に近いものを体験させるというのは良いことではないでしょうか。
神社に行くことはどんな信仰を持っている人でも関係なく、この日本という土地におわします土地の神様に感謝の誠をささげ、その神々に世のため人のために働くということを誓うことです。
「神道」という言葉はその他の「仏教」「キリスト教」「イスラム教」とは別格の物であり、どちらが優れているかという問題ではなく、その家に上がればその家のしきたりやルールに従うのが当たり前という考え方です。
例えば、普通の日本の家庭では食事の時に箸を使って食べます。外国人が来てもまず箸を使ってもらい、それができなければ便宜上ナイフやフォークを使わせると思います。
自分の国の風習では食べたら骨や残飯をテーブルの下に捨てるという人が来ても、それを強行する人はいないと思います。きちんとその場所の習慣を守り、周りを見てできるだけそれに合わせようとします。
どんなに合わせようと努力しても失敗することがあります。でも、合わせようとする努力は認めるので失敗してもほほえましい笑い話となるのです。
それをこれが自分の習慣だからと言って強行したらどうなるでしょう。誰も二度とその人を家に呼ばなくなるでしょう。
どんな宗教を信じていてもいいのです。ただ、その土地の神様に礼を示すというのが神社にお参りに行くことですが、それを曲げて教えている宗派があります。
それはすべてのものに命があり、神々が宿るという考えを持つ日本人にはなじまないものです。
能楽堂の能(ひのき)舞台に上がる時には白足袋をはかないと上がれないというルールがあると以前お話しましたが、逆に白足袋さえはけばどんな人でもそこに上がることができるのです。
この一定のルールさえ守ればどんな人でも仲間として受け入れるという日本人特有の習慣を理解しない人が「ヘイトスピーチ反対」とか、「日本は移民を受け入れない冷たい国だ」とかいって騒いでいる人だと思いませんか。
「私」と「公」の線引きをきちんと理解して、私の心で信じる信仰とその公のルールである神道との仲の良い共存を常に実現してきた日本の精神を今こそきちんと若者、いや日本人全体に教えるべきだと思います。
それは戦後教育で一番ないがしろにされてきたことであり、その概念さえも知らない人たちが多くなってきている日本で、今それを知らなければ二度と日本が復活しないのではないかという危惧を持って成人の日のニュースを見ていました。
皆さんはどのような気持ちで昨日今日のニュースをご覧になっていたのでしょうか?