なぜ創価学会に違和感を持つかがわかった! | 井上政典のブログ

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 歴史ナビゲーターの井上政典がお贈りする祖国日本への提言です。
 
 ご意見は賛成反対を問わずどんどん書いてください。

 ただし、社会人としての基本的なマナーは守ってくださいね。

 私は学生時代にアメリカの宣教師の先生からキリスト教と英語を学びました。その際にアメリカ人の先生たちのキリスト教に対しての真摯な生き様に衝撃を受けました。

 私が学生時代に出会ったアメリカ人宣教師の先生たちは、戦後日本の若者を救おうという崇高な精神性を持って来日された方々ばかりでした。
 
 20代で来日されてもそれから30年以上の月日が流れ、青春の熱い思いをもって来られた先生たちもそろそろ定年で帰国の時期が来ていました。

 私と同じ世代の西南学院大学出身者の方々は、グレーブス先生、シェパード先生、ホートン先生、フェナー先生などの名前を聞くと懐かしい青春時代の思い出がよみがえるはずです。

 私は、この方々の帰国を空港でお見送りした世代であります。

 素晴らしい先生方ばかりでした。

 今考えると、この方々は無私の心に近い志をお持ちになり、戦争で傷ついた日本の若者をキリスト教で救おうという気高い方々ばかりでした。

 だから、キリスト教がとても好きで、一所懸命に聖書を読んでいた時期があります。

 でも、英語の聖書(リビングバイブルという口語で書かれた聖書です)を読んだ時と、日本語の聖書を読んだ時の何かわからない違和感を持ちながら、だんだん、キリスト教の世界に疑問を持ち始めました。

 明治生命を47歳で早期退職して、福岡に返ってきてから始めたお仏壇のはせがわの長谷川裕一相談役の所での毎週金曜日朝7時からの勉強会に5年以上通いました。

 そして生長の家の谷口雅春先生の『生命の実相』を読んでの勉強で仏教や神道について学び始めてから、その違和感が何かということがわかってきたのです。

 素晴らしいと思っていたキリスト教はだんだん色あせてきました。

 その教義は仏教ほどの深さがなく、また神道ほどの広さがありませんでした。 

 私が憧れていたのは、神の意思を自分の志しとして来日され、献身的な活動をされていたあのアメリカ人の先生に対してだということがはっきりとわかってきました。

 日本の神仏習合を実現できた神道の奥深さ広さは学べば学ぶほど凄いということがわかるようになってきました。

 そんななか、ご縁があって、海の正倉院と呼ばれる宗像大社の沖ノ島に5回も受け入れていただき、その感性がどんどん強くなってきました。

 今私は機会があればどこかの大学院で宗教をもう一度一から学びなおしたいと思うようになっています。
 
 直感で感じている日本の精神文化を体系的にまとめてみたいと思っております。

 そういう中、創価学会に対しての違和感が何かということがわかりました。

 どんな宗教でも、そこには必然性があり、他の人間がその宗教の是非を判断すべきではないと思っていましたが、創価学会の普通の日本人が持つ違和感を紐解きたいと思います。

 ただ、創価の教えを非難したり、否定するものではありません。

 その批判をするにはまだ研究が足りていませんし、まだまだ未熟だと思うからです。

 ただ、とてもおかしいと思うのは、現世利益を求める学会員が多くおられ、それは創価の教えを本当に理解していないから普通の日本人に違和感を持たれるのだと思うようになりました。

 仏教は本来、自己の我を捨て去る教えだと理解しています。

 自分の我欲に固執するために悩みや苦しみが生まれてくるとお釈迦様は説いておられると理解しています。

 そのため、自分の欲をどう捨て去るのか、ありのままにどうさまざまなこの身に降りかかる出来事を受け入れるのかを考えるものだと思っています。

 そして他人との差を取るつまりこれが「さとり」に繋がっていきます。
 
 それは神道において自然=神さまと同化する、自然と一体となることによりすべてを受け入れる考え方に繋がっていくのではないでしょうか。

 弘法大師空海が唐に渡り、真言密教の奥義をほんの一年ちょっとで身につけられたのは、この日本人が持つ自然と一体、つまり私たち一人一人の心の中に神様(仏様)が存在すると理解、体得されていたから奥義への到達でき、恵果阿闍梨から並み居る弟子を飛び越えて弘法大師に授けたと思っております。

 仏教はもともと天の法則を知り、それを実践することだと思っています。

 それが人間の救いとなり、本来の心の豊かさや幸福に繋がるのだと思っています。

 有り余る金銀を持っていても、それが幸せとは限らないのです。

 その金銀に執着することにより、誰かが盗みをしないかと疑い、自分に近づいてくるのはその金銀が目当てなのかと人を素直な目で見ることができなくなります。

 大企業のサラリーマンの時は、その企業の中の地位がすべてだと思っていた時期がありましたが、会社を辞めて自由な身になってみると、大企業の社長よりも、中小企業の社長さんの方が、従業員とその家族の生活が自分の方に直接かかっているために、真剣であり大変だということが見えてきました。

 大企業の社長はすぐに変わりがいますが、中小企業の社長さんの替わりはなかなかいません。

 このように自分の世界観だけに凝り固まってしまうと大局が見えなくなってしまうのです。

 CHINA人や朝鮮人の行動が子供のように見えるのも、社会の価値が「お金」という尺度によって図られているからだと思うようになりました。

 社会的地位=お金持ちという世の中よりも、その人が持つ精神の高さがみんなに評価される社会、それが日本であると思います。

 ホリエモンもすごい人だと思います。一代で財を成し、社会に大きな影響力を持っていますが、私は決して尊敬できません。

 なぜなら、彼は個人主義の権化のように見えて仕方がないからです。

 国家という殻を私たちは背負って生きているにもかかわらず、それがなくてもいいと平気で言える人を私は信じることができません。

 自分たちが安全に暮らせて、自分が求めるだけの教育を受けることができる祖国に対して何の責任感もない人だと思うからです。

 国会前で、福島瑞穂や山本太郎が「日本を戦争のできる国にしてはならない」と吠えていますが、交戦権は国家に認められた自然権です。

 それを否定している日本がいびつであり、それがあるからアメリカに護ってもらわねばならないのです。

 これを普通の国に戻そうとしているのをどうして邪魔するのでしょう?

 「自分は戦争が嫌だ、戦争をしたくない」と思っていれば戦争に巻き込まれないということはあり得ません。

 国家間には個人の希望や考えは消滅してしまうことが往々にしてあります。

 チェニジアで起こったテロ事件も、あの痛ましい犠牲者の方々は戦争が好きだったのでしょうか?

 そんなことはないと思います。誰よりも平和を愛し、一所懸命に働いてお金を貯めて憧れの海外旅行に行ってあの卑劣なテロ事件に巻き込まれているのです。
 
 そこには自分の意思とは全く無縁の力が働いているのです。

 話を元に戻します。

 「何無妙法蓮華経」というお題目は日蓮上人が苦難の修行から考え出された崇高なものだと思います。

 「法華経の言う通り」、自分たちの悩みやその解決策はすべて法華経に書いてある、だからすべての法華経の教えに委ね、ありのままに生きよと教えられていると思います。

 「南無阿弥陀仏」と「阿弥陀さんの言う通り」で、阿弥陀如来様が私たちを救ってくださる、だから阿弥陀如来様におすがりし、それをありのままに受け入れよという教えです。
 
 どちらも、ありのままに受け入れることなのです。

 一心不乱に念仏を唱えるのは、自分の心を無にし、阿弥陀様や法華経の教えをその空っぽになった自分の心に注ぎ込むためです。

 自分の子供の合格や無事を祈っているジジババや親御さんの一所懸命に祈っている姿は神々しくもあります。

 でも、自分のために何千回もお題目を唱えることは、どんどん自我を膨らませることになるのではないでしょうか?

 世のため、人のために一心不乱に御題目を唱えるのは素晴らしいことですが、自分の現世利益のためにお題目を唱えるのは、仏教本来の姿から離れているのではないでしょうか。

 自我を捨て去るべき教えのはずなのに、自我がどんどん強くなっていき、すべて自我の願いを叶えるためにお題目を唱えるようになってはいませんか?

 そうなれば、自我の壁は厚く大きくなっていくばかりで他との差はなくなるどころか、どんどん大きくなっていきます。

 それではいつまでたっても「悟り(差取り)」は得られないでしょう。

 すべてとは言いませんが、自分のために自我の欲望を満たすために一心不乱に御題目を唱える人が多いのではないでしょうか?
 
 それを見るたびに違和感を持つようになったのです。

 宗教団体がどうして正当を持ち、自分たちの主張をするのでしょう?

 私はここが理解できません。

 本来信仰というものは、自分の心向き合いながら、他との差を取り、少しでもみんなと一緒に仲良く暮らせるようにするためのものではないでしょうか。

 それを学会員を数の力として変な方向に歪めているように思えてなりません。

 私はたくさんの創価学会の会員さんを知っています。

 みんなとても良い方ばかりです。

 でも、それが組織政党となったら、平気で日本の国益とは反することをする。

 矛盾していると思います。宗教団体は政治にかかわるべきではないと思っております。

 違和感、それは日本人としての違和感です。

 私たちは、世のため人のために自分の命を投げ出す覚悟を持つ日本人です。自分さえよければという考え方を前面に出された信仰をどうしても理解できません。

 一心不乱に御題目を唱えれば唱えるほど、御仏の心は違う方に行っているのではないでしょうか。