どうして明治維新は西国雄藩から始まったか? | 井上政典のブログ

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 歴史ナビゲーターの井上政典がお贈りする祖国日本への提言です。
 
 ご意見は賛成反対を問わずどんどん書いてください。

 ただし、社会人としての基本的なマナーは守ってくださいね。

 明治維新の立役者というとまずは薩摩・長州、そして土佐・肥前といわれ、薩長土肥と教科書では習ったはずです。

 そして東北諸藩が最後まで奥州列藩同盟などで新政府に対抗しました。

 会津藩の白虎隊や長岡藩の戦いは有名ですね。
 
 では、なぜ西国から尊皇運動が始まったのでしょう?
 
 この疑問を試験で問うこともないし、説明も不十分です。でも、この東西に長い地形の日本にとってこの地政学的な質問こそ、アジアの状況をしっかりとみないといけないということが理解できるはずです。

 いろんな理由があります。

 歴史は決して単一の理由で動いていません。いろんな理由が重なりあい、そして世の中の大多数の人たちに影響を及ぼすようになってはじめて世の中が動きます。

 王朝がころころ変わったCHINAや朝鮮半島の歴史を見ればその答えは明白です。
 
 王朝が変わる最大の理由は民衆が食えなくなることです。

 異民族の王朝であろうが、腐敗した王朝であろうが人々が毎日ごはんを食べられるようなときには革命は起きていません。 

 征服王朝である元朝でさえも、創建時には勇猛果敢だったモンゴル人が中華化されて戦を嫌うようになりました。

 お金で軍備を買うという傭兵制度を導入しましたが、その傭兵たちが強大な力を持ち、モンゴル人たちの統治がうまくいかなくなりました。
 
 もともと食糧生産量の割には人口が多すぎる大陸では、食えない民衆が増えてきたのです。
 
 人々に満足に食わせられない王朝は持ちません。すぐに別な王朝である明に変わるのです。そしてその明も腐敗し、清に変わっていきます。

 その清が近代史の中では日本と大きくかかわるのです。

 話がまた大きくそれてしまいました。

 なぜ西国の雄藩から維新が起こったかです。
 
 それはアジアの状況の変化に敏感だったから、というよりも敏感でなければならなかったからと言った方がいいでしょう。

 もともと長崎に出島というものがあり、唯一の公式な世界への窓と言っていいものがありました。
 
 そこにはオランダを通じて海外の文化が細々ながら入ってきていました。

 日本人の凄いところは、その細々と入ってくる情報を体前面で受け止めて、そして持ち前の工夫と手先の器用さで自分の物としてしまっていたことです。

 当然、軍事的な発明品は日進月歩の世界ですし、幕府が制限をしていましたから、実用化までは行きません。

 しかし、理論的には当時の知識人の間には浸透していたのです。

 ペリーが持ち込んだ蒸気機関車の模型では、他のアジアの国々がただびっくりするだけだったのに、日本人はそれを科学の力だと冷静に分析し、これがあの本に書いてある蒸気機関というものかと技術者の目でそれを見ていたことに、アメリカ側が驚いたという記録があります。

 そんな中、1808年フェートン号事件が起こります。
 
 長崎の街は出島もあるために幕府の直轄領でした。だから奉行所が存在しました。

 そしてそこの警護は福岡藩と肥前藩が交代で行っていたのです。

 そこにフランスと当時戦争状態にあったイギリス船がオランダ国旗を掲げながら成り済まして入港してきました。

 しかし、イギリス船とわかると当然のことながら出迎えたオランダ商館員と奉行所の通訳国法でオランダ以外の欧州の国とは交易しない旨を伝えますが、イギリス国旗を掲げなおし、彼らを人質に取った上に水と食料を要求されます。

 長崎奉行の松平康英は当時の長崎警固の任にあった肥前藩に撃退を命じますが、太平の世に慣れきっていた肥前藩は経費節減のために本来の駐在兵力の10分の1ほどの兵力しかいませんでした。

 そのため、イギリス船フェートン号の外交儀礼を失した要求に屈せざるを得ませんでした。

 これを現代に言い直せば、尖閣諸島に悪天候を避けるために無断でCHINA人たちが上陸し、二三日後にCHINAの旗を残して去っていったというような事件です。

 実際には戦闘は起きず、双方人命の犠牲はありませんでした。だから左巻きの平和を訴える人たちは、何にもなくてよかったと声を大きくして言うでしょう。

 人的・物的損害は皆無であっても、精神的特に誇りは大いに気付つけられたのです。
 
 そしてそれは次の人的・物的被害に繋がることになりかねません。

 その精神的特に誇りというものが「国家の主権」であり、「国家の威信」なのです。

 つまり外国に舐められたということです。

 それでも9条信者たちは、何もなかったからいいじゃないか殺し合いをしなくてよかったというでしょう。

 でも考えてみてください。暴走族が家に勝手に上がり込んで「こんなところに住んでいるのか」と家の中を見回りながら去っていったとしましょう。

 人的・物的な被害はありませんでしたが、皆さんならどうします?

 何も取られなくてよかった、何もなくてよかったといえるでしょうか?

 フェートン号事件では、長崎奉行 松平康英は国威を辱めたといって自ら切腹してはて、許可なく兵力を減らしていた鍋島藩家老等数人も責任を問って切腹しました。

 ここにはナポレオンのフランスとイギリスの戦力争いが極東まで及んでいたことになります。

 フランスが強大でオランダがその占領下に入っており、オランダ領は敵対するイギリスの敵となったわけです。

 日本史と世界史をわけている日本の歴史教育の可笑しさをここでも垣間見ることができます。

 このため、肥前鍋島藩は西洋技術の習得に躍起となり、蒸気機関やアームストロング砲の国産化など技術が発達します。

 かたや福岡黒田藩では、後に筑前勤王党と呼ばれるようになる加藤司書公や月形仙蔵を中心とする人たちが、政治改革を唱え出すのです。

 藩の財政を極度に圧迫したものの一つに参勤交代制度がありますが、この廃止を提唱し、いち早く廃止したのは福岡黒田藩です。

 薩長同盟を画策し、対馬藩邸で薩摩と長州を引き合わせ何度も会合を持たせたのも福岡藩でした。

 ところが、福岡藩の藩主が薩摩からの養子であり、その姉や姪が将軍の御台所になったこともあり、討幕まで行きつかず、長州よりの加藤司書公などは粛清を受けます。

 それが1865年の乙丑の獄です。

 その落ちたバトンを拾って薩長同盟を実現させたのが坂本龍馬と中岡慎太郎です。

 その後福岡藩は急進派はいなくなり、佐幕派が大勢を占めるようになったために、明治維新後、天下を取った長州藩出身者から徹底的に福岡藩は弾圧され、最後のお取りつぶしの藩となるのです。

 それとなぜ長崎に出島が必要だったかというと、CHINA大陸との貿易の関係上どうしても地理的に西九州、そして天然の良港のある長崎が貿易の中心となったからです。

 わざわざ遠い東北にまで行く必要がなかったのです。

 欧州諸国にとって、アジアの植民地経営をしているので、そこから一番近い日本の場所というのが、西日本だったということです。

 東北や北海道ではロシアの船が出没していましたが、それよりも喫緊の脅威である欧州諸国のほうが問題でした。

 それは1840年に起きたアヘン戦争です。
 
 これは禁制品のアヘンをイギリスが清国に持ち込んで大きな問題となったため、清国がその輸入を禁止し英国商人のアヘンを没収し、衆人看視の元、焼却処分にしたために起こった戦争です。

 これはイギリスの大国としてのおごり高ぶりによって引き起こされた理不尽な戦争であり、その悲惨な結果と共に日本国内に詳細が伝えられ、知識人たち間に危機感が募っていくのです。

 いま高校の歴史の授業でアヘン戦争はどのように伝えられているのでしょう?

 これこそ、世の中は正義ではなく軍事力でどうにでも捻じ曲げられるということを表した戦争だったのです。

 その細かい内容は林則徐の部下の魏源が『海国図志』にまとめられて出版されました。そこにはイギリス軍の戦法やどのような推移で戦闘が行われたかが書いてあります。

 NHKの「花燃ゆ」で問題になっていた本はこれです。これは見た人はよくわかると思います。

 そしてこの本は、清国内よりも日本で食い入るように読まれた本です。

 子のようにアジア諸国と近い位置にある西国諸藩、それも密貿易などを通じて商人の情報がつぶさに入り、危機感も半端なかったのです。

 四国戦争という長州藩とイギリスやフランスなどとの間に起こった戦争の講和条件に「彦島」の割譲を言ってきていました。

 高杉晋作が全権大使として断固これだけは拒否します。

 山口県下関市彦島でググってください。

 この場所が関門海峡の要衝にあることがわかります。もしここを白人に弱い日本人が交渉担当だったらと思うと恐ろしい位置にあるのです。

 このように先人たちは日本国を守るために命を張って防いできています。
 
 それが今回の答えです。危機感の違いです。

 それほど地理的な意味があります。それを歴史と地理を分けて教えている日本人は理解しにくいのです。

 ここにも正しい歴史認識ができない理由がわかりますね。